決め手
一向に症状がよくならない僕を母親が心配して、東京で開業医をしている親戚のところに相談した。「一度細かい検査するから来てください」との申し出に母親は藁にもすが縋る思いで頼った。
その旨を病院の主治医に伝えた途端に点滴を抜かれ、何の処置もしなくなり、翌日には退院させられた。
その次の日だったか、親戚の病院に行って検査、採血した。結果は芳しくなく、親戚のお医者さんは顔を曇らせながら、
「もしかしたら大きな病気かも。大きな病院を紹介するから早めに行ってほしい」
と言われたそうだ。
月が変わり3月になった。3日だか4日だったか定かではないけれど、東京医科歯科大学病院の小児科に行くことになった。親戚のお医者さんが卒業した大学病院だそうな。
東京医科歯科大学病院はかなり年季の入った建物で、医科棟は暗く汚い。
隣の歯科棟がとても綺麗だなと思って見ていた。小児科外来にて手続きした後に検査、採血して、その日は家に帰った。親戚のおじさんが「タクシーで帰りなよ」と母にお金を渡していた。東京からタクシーで横浜の家までのお金くれるなんて凄いなと感謝しつつ、熱と疲労で眠りながら家路に就いた。
3月6日に結果が出て、僕は病院の廊下で待っていた。母だけがなかで結果を聞いていた。
血液検査の結果は、全身性エリテマトーデス・SLEである可能性がとても高いということだった。母にとって初めて聞く名前、初めて知る病気だった。
指先の冷感レイノー現象、円形脱毛、魚の目などの感染症、心臓の苦しさ、雪による真っ赤な頬の赤み蝶形紅斑、原因不明熱、そして尿検査による腎機能低下、タンパク尿と尿潜血が認められること。これらを合わせるとSLEが濃厚であると母親は説明を受けた。
「20歳まで生きられるかわかりません。最善は尽くしますがまだどうなるかは未知数です」
と付け加えられた。
僕は、後になって自分で病名と病気の内容を確認した。
当時は告知なんて子どもにはしなかった。でも、何がなんだかわからないうちに入院して、大量の薬を飲んで、行動制限されて、何の病気かとても知りたかった。何か手掛かりはないかと考えたところ、母はよく医学事典を見ていたからそこにヒントがあるのではと思い、あるページに赤いラインが引かれていたので確信したわけだ。
この病気は自分のことではないかと母親に聞いたら、
「主治医に直接聞いてごらんなさい」
と言われ、聞いたら「そうです」とあっさり応えてくれた。発病してから3年後だった。
ステロイド
3月8日、東京医科歯科大学病院の小児科に入院する。オレンジ色の小さな粒の薬を12錠、毎日飲んだ。
熱は次の日引いて、とても元気になった。このオレンジ色の小さな粒が「ステロイド」で、1錠5ミリグラム換算、プレドニン®錠最大投薬量60ミリグラムからの開始だった。
この薬、苦いなんてもんじゃない。世の中で一番苦いのはこの薬ではないかといまも思っている。
特に根拠もなく退院は早いんじゃないかと思ったけれど、そうはいかなかった。主治医が、
「腎臓の病理検査をしたいのですが。腎生検というちょっとした検査なんですが、まあ、簡単な手術になりますかね」
と伝えてきた。僕はずいぶん簡単に言うなあと思ったが、同じ病室のH君が、
「俺も腎生検やったよ、背中にぶっとい針刺して、レントゲンを背中に当てながら腎臓に刺さるの見えんだよ! でね、何か組織取るときビックンとなるんだよ」
と笑顔で話してきた。この話を聞いて僕は頭がクラクラした。
針はストローくらいの太さなんて言うし、ビックンなんて言うし、24時間砂嚢当てて止血するから動けないなんて言うし……。