第一章 新しい家族

やはり日本海は良い。冬には背丈以上の波を打ち上げ、荒れ狂うのに、夏ときたらまるで昼寝でもしているみたいに穏やかだ。熱い砂の上、青い空から涼しい風が降りてくる。

故郷、益田市飯浦。三年前までここに居たんだ。おばあさんと米を作り、畑を耕した。郭父さんと薪を集め、魚を捕り、薬草を摘んだ。苦しいながらも、十分に楽しい生活がそこにはあった。

短い間ではあったが、郭父さんに学び、育てられた。言葉の話せない自分も、キク婆さんの見えなかった目も、彼は積極的に世話をし、治してくれた。心から感謝している。

自分の死が早過ぎたかどうかは、生きた内容にもよると思うので、不問にしよう。

青い正義感、ほとばしる情熱、抑え切れない愛を短い間に経験した。未熟と言えばそれまでだし、運命だと思えば、それも納得する。人が誰しも通る道ではないか。

大きな松の木を右に見て、緩やかに坂を上れば、以前住んでいた我が家だ。この住すみか処を出て、僅か三年しか経っていない。

荒れていると思っていたが、手を入れているのか、あの頃とあまり変わっていない。小路が住処の裏へと続く。そこには家族のお墓がある。

弘父ちゃん、芳蔵じいちゃん、キク婆さん。もう一つ、新しい墓標がある。

武……自分の墓だ。

誰が立ててくれたのだろうか。自分が死んだことなど知らないはずなのだが、ありがたいことだ。人は死ぬと故郷に帰る。もうゆっくり出来るんだ。

一九四六年早春、島根県益田市。

慎重に気配を読む。音を消して歩く。浜からどれくらい来ただろうか。浜辺にある漁師の家々を避け、この地域特有の、せり出した山間にある民家を目指した。

"郭昌宇"、朝鮮半島南部の軍の幹部兵士である。日本語は出来る方だが、見つかれば騒ぎになり、拘束されるかもしれない。敗戦直後とはいえ、油断は禁物だ。

軍の訓練で学んだことで、何処に居ても生き抜くことは出来る。暫くは、何とかやり過ごして、早く国に戻らなくてはならない。空が白み始めた。疲労と空腹で今にも倒れそうだ。

しかし、意識だけは研ぎ澄まされている。まずは、生きることを優先させよう。気配がする……。小さな民家だ。灯はないが、木戸を開ける音がした。

耳を澄ます。

「武や。起きんさい。水を頼むで」

老婆の声。しばらくして、少年が桶を持って出てくるのが、うっすらと確認出来た。武という少年は、桶に二度、水を満たし中へ入っていった。

この国の敗戦は見事な結末であった。天皇陛下は、敗戦処理条件を、マッカーサー元帥から突きつけられた。「この戦争は、私の責任において始められたものであるから、まずは私を処分しなさい。命も惜しくありません。

しかしながら、残された国民全員が飢えることのなき様に、よろしくお願いします」この言葉を聞いた元帥は非常に驚いたという。

敗戦国のトップが、命乞いをしなかったのは、天皇陛下以外に聞いたことがなかったからだ。マッカーサーが、以後どれだけ多くの支援をしたか、日本人の武だけではなく、韓国人の郭も身をもって知ることになる。

お陰で日本は、空前の発展へと歩みだすことが出来た。三度目に井戸から戻ってきた武少年に、郭は声を掛けた。「おはよう」早朝の冷たい風がやわらいだ気がした。

少年の耳には届いているはずなのだが、様子がおかしい。

「おはよう」

もう一度声をかける。

? 何だか対応が変だ。こっちを向いてはいるのだが。少年は"にっこり"笑って家に入っていった。

ん……? 郭には何だか、成り行きを楽しんでいるみたいに感じられた。