ある日、「こんな新聞読めるか!」といった苦情が入った。雨の強い日は新聞が濡れないようにナイロンで包み、ポストに投函していたが、強風と強い雨に打たれて、ポストまで濡れてしまい、新聞はずぶ濡れとなっていたようだ。1枚めくるのにそぉっと湿った味付けのりをめくるかの如く掴み上げるものの、びりびりと溶けるように裂けてしまったとのことだった。
苦情の内容は正当性があった。今、私が同様の新聞を受け取ったならば、その人と同じように感じるだろう。しかし、当時はそこまで理解が及ばず、「せっかく配達したのに」と唇をかんで悔しさを忍んだものである。この出来事をきっかけにお金を支払う側と貰う側の関係を学ぶことになった。
冬のある日、玄関を開けると腰のあたりまで雪が積もっていた。冬の朝は、外が真っ暗であり、雪はしんしんと降り続けていた。ジャンパーに合羽を重ね着て、手袋をつけ、懐中電灯を持って雪をかき分けながら、いつも新聞を置いてくれているところに向かった。
しかし、そこには新聞が無かった。やむを得ず、小学校近くの新聞屋まで行くことにした。すると大雪により、新聞が遅れているとのことだった。新聞屋の中で少し待つことになり、新聞屋のおばさんが「寒いのによう来たな、頑張り屋さんだね」と、大きな八朔を2玉くれた。
その後、配達する新聞と八朔と懐中電灯を持ち、帰路に向かった。外に出ると、足跡は既に雪によって消されており、辺り一面が真っ白だった。行きと同じように腰で雪をかき分けながら進むが、体が非常に重たかった。行きとは異なり、新聞と新聞屋のおばさんから貰った八朔2玉が増えているのである。
おばさんの好意は非常に嬉しかったが、両手で持つ大きな八朔と新聞は、雪の冷気は手をこわばらせ、動かせなくさせた。その時、前方に光が見えた。家を出発してすぐに母親が追いかけてきた明かりだった。その時の母親の形相を見て、相当心配をかけていたことを自覚した。
小学生の私が得られた金額は高額ではなかったものの、少しの貯金ができた。