築地本願寺町人の寺はモダン

築地はその地名の通り、土を盛って新しく陸地を築いたところで、江戸・明治期の新開地です。

それだけに新しいものを柔軟に受け入れた土地柄であり、しかも銀座の地先という地の利がありました。

築地本願寺は、京都の西本願寺の別院として元和三(1617)年に浅草に建立され、江戸浅草御坊と呼ばれていましたが、明暦の大火で焼失したとき、幕府は現地での再建を許さなかったので、やむなく築地に移転したのです。

その時、浄土真宗の信者であった佃島の漁師達が本堂建立に尽力したと言います。浄土真宗は仏教諸派の中でも現世をそのまま是認し、教義が分かりやすく、宗教上の作法や行事が受け入れ易かったので、多くの商人や漁民が信者になり、江戸では一般大衆に広く普及しました。

その後、築地一帯には、浄土真宗の多くの寺院、墓地が建てられて寺町として発展します。

また、浄土真宗は、伝統に縛られない開放的な教派でしたから、仏教諸派の中でも外国での普及活動にも熱心でした。戦後も、主として日本移民の多い諸国で布教活動を活発に行っていますから文明開化の入口だった築地に移転したことは処を得たと言えます。

関東大震災で寺町は分散しましたが、本堂は昭和九(1934)年に建て替えられて、通常の寺院建築とかなり違った形をしています。

仏教は中国経由で渡来したので、大抵の寺院は中国形式ですが、築地本願寺は外観が古代インド様式を採用したので、人々に不思議な印象を与えます。

設計者は伊藤忠太という建築家で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを証明した人ですが、中国やインドを旅して日本建築のルーツを探ったりした、寺院建築の第一人者でした。

築地本願寺の本堂が再建された当時、日本人の寺院イメージと異なっていたため色々の批判がありましたが、今見ると仏教寺院として荘厳さの中にモダンさを持っており、仏教の国際化の基地に相応しい寺院です。