(2)上野の山と寛永寺

上野の山は、家康、秀忠、家光の三代の将軍に仕えた天台宗の僧、天海によって開かれました。

京都の比叡山には天台宗の総本山、延暦寺がありますが、天海は関東における天台宗の本拠地を上野の山に造営したのです。

寛永寺の山号が東叡山と言うのも東の比叡山と言う意味です。

比叡山は京都御所の鬼門に当たりますが、上野の山も江戸城の鬼門に当たります。

従って寛永寺は江戸城の守り神としての役割がありました。徳川家の菩提寺は最初は芝の増上寺でしたが、三代将軍家光のとき表鬼門を守る寛永寺も徳川家の菩提寺となり、初めて家光が埋葬されました。

その後、徳川家の将軍達は交互に増上寺と寛永寺に埋葬され、両寺とも徳川家の菩提寺になりました。天台宗の寛永寺と浄土宗の増上寺と宗派は違いますが、共に徳川家の保護を受けて繁栄したお寺です。

しかし、明治維新の際、薩長軍との上野戦争で、寛永寺の広大な境内にあった歴史的建造物は殆ど灰になり、本堂の根本中堂、五重塔、清水観音堂が上野公園の敷地内に分散して残っています。

根本中堂は五代将軍綱吉により建立されましたが火災で焼失し、現在あるものは川越の喜多院から移設されたものと言われています。

徳川家の霊廟も上野戦争と米軍の空襲で焼失してしまい、唯一残っていた五代将軍綱吉の霊廟勅額門と水盤舎だけです。

寛永寺の復興が増上寺に較べて見劣りするのは、維新後の明治政府の政策に依るところが大きかったのです。

明治政府は、最初上野の山に医学校や病院を建設する計画でしたが、そのとき招聘していた蘭医ボードウィンは、公園として活用することを明治政府に強く奨めて、今日の上野公園が誕生しました。

その後、日本政府は上野公園内に、音楽学校、博物館、美術館などの文化施設を次々と建設し、建造物がないのが普通の西欧の公園とは違う、異色の文化公園を造成していきました。

このような文化複合体としての公園は世界的に見ても珍しいものだそうで、今では上野の山は文化の森と言われています。