美濃からの脱出
美濃は、守護の土岐氏の地でしたが、道三様が守護代として、後に戦国大名として、権力を振るっていました。美濃の国衆たちの多くは、道三様のことを蝮とか、成り上がり者とかと、恐れと共に陰で揶揄しておりました。お父上が油売りだったためでしょうか? 道三様が守護の土岐家の人たちを毒殺したり追放したりしたためでしょうか? でも、私は、道三様を悪く思ったことはありません。叔母が道三様に嫁いでいるからだけではありません。道三様は、なぜか私のことを気に入ってくださいました。
よく、「お前の性格は、私の若い頃に少しだけ似ている。狡賢い所が」と笑いながら言われていました。
でこっぱちでのろまな私の能力を引き出し、重要な役目を与えてくださいました。道三様から鉄砲の研究のため、暫く堺に行けと命じられたこともあります。煕子と結婚したばかりの頃だったので、少し悲しかったです。また、戦術の研究を命じられたことがあります。戦術は、鉄砲を使った戦い方や孫子の兵法を研究しました。
道三様へ「鉄砲は、撃った後、玉を込め、次に撃つまでに時間がかかるため、少数の鉄砲ではあまり役に立たないと思います。しかし、殺傷能力が高いため、多くの鉄砲を持つと、敵から攻めてくることができない、抑止力になるのではないかと思います」と進言したことがあります。
「よく調べた。しかし、堺の鉄砲は高価だからなあ、美濃で作れないか検討してくれ」
「承知いたしました」
私は、美濃での刀鍛冶の状況や鉄砲の作り方を調べました。しかし、道三様が隠居し、その後、長良川の戦いがあり、美濃で大量の鉄砲を製造することはできませんでした。
長良川の戦いは、道三様の嫡男である義龍様が、後継者争いの末に自分の腹違いの弟二人を殺害したことを切っ掛けにして始まりました。この戦では、私を見出してくだされた恩人でもある斎藤道三様側に立ち、戦に参加しました。しかし、あまり活躍できませんでした。なぜあの道三様が、嫡男の義龍様に敗れたのか、少し分析してみます。
義龍様は、自分は土岐頼芸様の子であると噂話を流していました(私は信じていませんでしたが)。そのため、美濃の国衆たちを多く味方に付けることができました。道三様側約2700人、義龍様側約1万7500人の軍勢で、戦を始める前から結果はわかっていました。それでも、道三様は、あまり戦経験が多くない義龍様を甘く見ており、また、義龍様も予想以上に戦上手でした。何しろ道三様の息子ですからね。
私はと言うと、敗色が濃厚になった時、道三様から、
「お前はもう良い、逃げろ。自由に仕官先を選べ、候補としては信長だ。信長は、全ての面で儂によく似ており、近い将来、のし上がると思う」とのお言葉を頂きました。
また、こうも言われました。
「他に仕官する場合、その国の領民がよく治まっているか、街は賑わっているか、川の氾濫はないか、などをその土地に行きよく調べることだ」
と教えて頂き、送り出して頂いたのです。
その後、すぐに家族を連れ逃げました。その時、煕子は身重であったため、背負って逃げたのを覚えています。重くて大変でした。