近所には大勢の子供たちがいて数人の仲の良い友達もいた。私たちは、毎日のように根津さんの庭に潜り込んで遊んだ。というのは、塀の一部が壊れていて子供たちには格好な出入り口だったからだ。庭は広くて森のようだ、池には橋も架かっていた。そこでトンボや蝶々を追いかけた。

当時、根津さんがどんな人かも知らず、坂の上のお屋敷を見たこともなかったが、ただ広い庭が子供たちには天国であった。一度も咎められた覚えがないのは黙認されていたのだろうか……。

子供たちはよくケンカもした。その時は青山組と笄町組に分かれて、決まってはやし立てる歌があった。「青南学校いい学校、上がってみたらボロ学校!」「笄学校いい学校、上がってみたらボロ学校」という他愛のないものだが不思議によく憶えている。

昭和十八年、私は青南小学校(当時は国民学校)に入学した。クラスには、いわゆるお嬢様が多かったが仲良しもできて楽しかった。

やがて、近くの三連隊からラッパの音が鳴り響き、兵隊さんの足音がザックザックと家の前を頻繁に通るようになり、空襲のサイレンが鳴る日が多くなった。

二年生の学期末、終業式が終わったら疎開しようと両親は家財をまとめていた。が……昭和二十年三月十日夜半、母の叫び声で目覚めたとき家はもう炎に包まれていた。私は無中で飛び出した。どの家もすでに炎が上がっていた。通いなれた道だったからか、私は必死に坂を上った。青南小学校の前まで来て独りだったことに気付いたが……母は妹の一人を背負い、一人を抱えて、見失った私の名前を叫びながらやはり坂を上って来て会うことができたのだった(その夜、父は徴用された軍需工場の夜勤で留守であった)。坂の下は紅蓮の巨大な炎が立ち上がり、空は焦げていた。