A先輩のそれらの武勇伝は、私が自衛隊に入隊してみて殆ど(全て?)事実ではなかったであろうことが判明したが、もっともらしく、そして面白おかしく話してくれたA先輩には感謝あるのみだ。A先輩との出会いと、A先輩から伺った武勇伝に大きな影響を受け、私は自衛官としての道を歩むこととなったのだから……。
A先輩からは、「お前みたいなヤツは自衛隊に入って一から鍛え直さないとダメだ!」と毎日のように言われていた。しかしいざ、私が自衛隊に入隊することを打ち明けると、「お前じゃあ絶対に無理だから止めとけ!」そう反対された。
特に、「自衛隊にも空挺部隊があるのですか? もしあるなら空挺部隊に所属したい!」と言う私に対して、「空挺隊員は超人的なヤツばかりだ。お前なんかじゃ務まらないに決まってるだろう、馬鹿な考えは止めろ!」と、一蹴されたものである。
(だが、その1年後、私は実際に空挺隊員になっていた。私は超人的では決してなかったが……。そしてA先輩にそのことを電話で報告すると、
「お前が行くようじゃ、空挺も終わりだな!」という反応が返ってきた。
ちなみに空挺部隊とは、“パラシュートで降下する部隊”のことであり、習志野駐屯地所在の第1空挺団が自衛隊で唯一の空挺部隊である)
私が自衛隊に入隊するに至ったのは、実はA先輩の影響によるものばかりではなかった。
昭和60(1985)年8月、群馬県の御巣鷹山に乗客500名超を乗せた日航ジャンボ機が墜落する事故が発生した。生存者はわずかに4名……。
その生存者を、上空でホバリングするヘリコプターからロープで舞い降りた自衛隊員が救助する様子がテレビで何度も映し出されていた。
その時、2年目の浪人生だった私は、心身ともに不安定で病院通いを続けており、その映像も病室で点滴を打たれながら見ていたのだった。
「今の俺は心身ともに弱い。だが、いつかは俺もあの自衛隊員のように、凄惨な状況下でさえも人を助けることのできる強い存在になりたい!」という、確固たる思いを持った覚えがある。
その“思い”にいつしか誘導され、それが具現化した結果として、私は自衛官になったのかもしれない。
(後で知ったが、日航機事故で生存者を救助した“あの自衛隊員”も空挺隊員だった)
自衛隊入隊を本気で決意した私は、近所の町内掲示板にある自衛官募集のポスターを確認し、備え付けてあった申し込みハガキに必要事項を記入して送付した。確か、電話ではなくハガキで応募したと思う。
のちに私が2年連続で米軍への留学要員に指定された時、「町内の掲示板を見て自分で入隊を申し込み、まさに裸一貫からここまで来たのだから大したものだ!」と、今は亡き祖母から褒められた思い出深い記憶でもある。