学問の問題点

日本文明の場合は、新しい生産基盤の上に花咲く新しい文化のほかに古い文化や外来文化が共存しているところに特徴があり、西欧文明は古い文化の上に新しい文化が積み重なっているのが特徴です。

言い換えれば、日本文明は本棚に本が並んでいるように色々な文化が整然と並べられ、いつでも取り出せるのに比べ、西欧文明では古い文化を掘り起こさねばならないのです。それが日本文明の豊かさ(多様性)を生み出しているのです。

それは日本文明が多神教の文明であるのに対し、西欧文明は一神教の文明であるからであり、その辺りを(図1)により説明します。

(図1)(注)西欧文化には個人主義~合理主義が含まれている。

日本人は自分たちを無宗教と思っているのですが、その基層には日本教があるのです。

一方西欧人は自分たちを無神論と思う人が増えているようですが、一神教と無神論の二項対立(いわば仏さまの手のひら)から抜け出さない限り何か問題に直面すると結局はキリスト教に回帰するしかないのです。

私が以前より不思議に思っていたのは、そもそも学問全体を対象としている哲学が「西洋哲学」と「東洋哲学」という専門分野に分かれ分断されていることであり、また、「日本哲学」という分野が存在しないとことです。

私は以前から仏教哲学の泰斗である鈴木大拙について知りたいと思っていたのですが、『大拙』(安藤礼二著、講談社 2018.10刊)を読み多くの知識を得ることができました。

鈴木大拙は西洋哲学と東洋哲学を統合しようとしたこと、及び、仏教と禅との関係について明確にしたのです。

結論としては、西欧の二項対立を克服するには、東洋哲学の「一即多」「多即一」の思想が鍵を握っているということなのです。そしてそこに「日本哲学」がどうかかわるのかということになるのですが、そこに「日本教」とは何かという答えがあるのです。

西欧文明はキリスト教による“形式知”の世界なのです。日本文明は“実践知”“暗黙知”の世界であったのですが、明治以降西欧文明に追いつくため、“形式知”の世界に移行したのです。

しかしながら、日本文明の基層には「日本教」があり、“実践知”“暗黙知”の世界が現在でも生き続けていたのです。