二〇二X年 夏
くねくねする右腕
脳髄(のうずい)が奥へ引っ張られる感じがしました。それと共に視界が狭窄(きょうさく)して、周囲は夕方のように暗くなります。このまま気を失ってしまうかと心配になりましたが、右手をテーブルに叩きつけてやると症状は少しましになりました。それでこれでもかというほど、何度も右手を痛めつけてやりました。
「わ、わ……」
警備員が必死に止めてきます。
「もう大丈夫です」
私の右腕は死んだようにハタリと動きを止めました。爪が剥がれて天板に血が滲(にじ)んでいます。
「わざとやってるんですか」
恐る恐る警備員が聞いてきました。私のことを狂人だと思ったのでしょう。
「いいえ、違います」
「だったらなんなんです。おかしいじゃないですか」
「ええ、御覧の通り、なんだかおかしいんですよ。意図に反して腕が勝手に動いちゃって」
「そんなことがあるもんなの」
大人しくなった私の腕をしげしげと観察してきます。
「あるんで」
す、と言いかけて、とても臭いゲップをしてしまいました。
「くっ……」
その直撃を受けた警備員が仰け反ります。
「こりゃまた大変な失礼をばいたしまして」
朝飯に食べた『回春軒』の名物海老焼売は、母の好物で美味しいのですが、あまり消化に良くないようです。あるいは少し傷んでいたのかもしれず、食後からずっと下腹に不快な膨満感がありました。
「絶対わざとだな。からかってるだろ」
警備員はぞんざいな言葉遣いで言います。
「許してください。出物腫れ物所構わずって言うじゃないですか」
屁も出そうになりましたが、必死に我慢しました。
「こっちは忙しいんだ。面倒は困るよ」
「謝ります。ごめんなさい」
すると、私の右手が媚びるように動いて警備員の手を握りました。
「な、な……」
目を丸くして固まっています。
「私がやっているのではありませんよ。頭の中に誰か別の私がいるようなんです」
言い訳してみましたが、警備員は信じようとしませんでした。
「ほんとなんです。嘘じゃないんです」
私の手は警備員の手の甲をいとおしそうに撫で回し、小指の付け根に生えた黒い毛を摘(つ)まんだり、裏返してたなごころを擽(くすぐ)ったり、更(さら)には指を絡めようとします。自分でもなぜこんなアホなことをしているのか理解できません。恰(あたか)も、いきなりなんの前触れもなく喪失した現実感を取り戻そうと、私の身体が四苦八苦しているかのようでした。
「やめんか、オッサン。気色悪いだろ」
ついに警備員がキレました。
「悪気はないんです。こいつが勝手に……」
私は左手で右手をもう一度殴りつけました。
「もういいから。ふざけないでくれ」
「脳の神経筋機構(しんけいきんきこう)に異常をきたしたようですね」
これは相当マズい、と思いました。
「ハア、なんのこと。わっかんねえよ」
警備員は泣きそうな顔になっています。