東京ゼロメートル地帯を遊水地に

東京ゼロメートル地帯と言われている隅田川の東、墨田、江東、足立、葛飾、江戸川の江東5区に最初に本格的に人が住んだのは、江戸時代初期の1657年明暦の大火の後、本所・深川地域が幕府によって計画的に開発されたときと言われている。この地域は大部分が干潟でそれ以前は漁師などが散発的に住んでいた程度だった。もともと江戸湾には利根川水系と荒川水系のすべての水が流れ込んでいた。通常時には今の隅田川と江戸川(当時は大日川)を流れていた水が、大雨で流量が増えるとすぐに氾濫し暴れまくった。

今の江東5区のあたりは、もともとは遊水地だった。徳川家康は関東入国とともに、この地区の流量を安定させるために利根川の東遷事業を起こした。関ケ原合戦よりも早い1594年(文禄3年)に着工し、60年かけて1654年(承応3年)に利根川は銚子に流れるようになった。

これにより安定的な新しい土地が生まれ、本所・深川地区の本格的な入植が行われた。なお利根川の東遷事業は、洪水対策ではなく、東北や関東北部の農産物を江戸に安定的に運ぶための舟運確保のためだったという説もあるが、目的はなんであれ発展しつつあった江戸の市街地を拡大するためには大いに寄与した(図1)。

(図1)東遷が完成したときの利根川

しかし当時の技術での河道付け替えというのは大変な作業で、今利根川と江戸川が分流している関宿から上流にかけて、幸手や行田周辺の利根川右岸にいくつかの堤防を築いたのだが、水量が増えるとそれらがすぐに破堤した。水は旧河道に沿って流れようとするので、その都度今の江東5区のあたりは冠水した。