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「環境」問題と環境のゆくえ
「環境」について論じる時、いつも思い出す出来事があります。ある建築家の講演会に参加した時のことです。自作を紹介するにあたり、見るだけでなく見られる仕掛けにより「環境」に取り組んだ作品と、既存の樹木をできるだけ残して「環境」に配慮した作品を紹介し、「環境」へ取り組みを重視していると説明しました。
講演後の質疑で私は、「同じ環境という単語を使っているが、ある時はenvironment(広い意味での環境全般)、ある時はecology(自然生態系)の意味で用いられている。これらを共通の概念による取り組みと説明するには無理があるのではないか。共通性があるとしたらどこなのか説明してほしい」と、質問しました。
この問いに対する答えは、「それはここで答えるには難しい質問です」というもので、あいまいに終わってしまいました。
この時以降、「環境」という言葉が、ある時は相手を攻撃する道具として、またある時は自己弁護の道具として、実に都合よく意味をずらされながら自分勝手に使われていることに気づくようになりました。
前述の講演会の数年前、1997年に京都で第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、俗にいうCOP3)が開催され、気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書が採択されました。
当時、私は勤務地が神戸であり地理的に近いことから、連日、推移に注視していました。ジャーナリストでも環境団体所属でもないため、会場に立ち入ることはできませんでしたが、会場内での仕事をしている知人から雰囲気と様子をリアルタイムで聞くことができました。
会場となった京都国際会議場は、名建築ではありますがいかにも古く、世界から集まった多くの参加者を収容するにはキャパシティ・オーバーな状況で、会議場内のカフェテリアは大混雑となりました。
そして、会議を主導したヨーロッパからの参加者の多くは、先に席を確保すると食事が終わっても議論を始めたり作業を始めたりして、席待ちの長蛇の列を尻目に席とテーブルを独占し譲る気配もなかったそうです。当時の私には、キャパシティ・オーバーなカフェテリアでの出来事が、キャパシティ・オーバーな地球とそこに住む人間の姿にオーバーラップして感じられました。彼らはルール違反をしているわけではなく、優遇を受けたわけでもありません。自らの機転によって必要な環境を確保したということなのでしょう。そこには心からの譲り合いはありません。限られた資源の配分における、権利の正統性の正体を見た思いでした。