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擬態
そのとき、何だろう、突然悪寒が走った。そして僕の記憶の中で、絡新婦という文字が踊り、僕はソファから飛び出すように立ち上がると、後ずさりした。まさか……。
「あら。急にどうしたのかしら? 怖い顔して。落ち着いて、もう少し私の話を聞いて下さらない? とても面白いお話よ」
絡新婦の伝説。美しい女に化けた蜘蛛の話……。
「擬態にはいろいろな種類があるわね。姿形がそっくりなものだけでなく、匂いや音や味がそっくりなもの、つまり対象となる相手が、何を手がかりに情報を得ているかによって真似るものが変わるのよね。また、擬態の目的にも違いがあるわね。枯れ葉にそっくりな蝶などになるのは、捕食者から自分の身を隠すためだし、虎が縞模様なのは獲物の目をごまかすためよね。つまり身を守る擬態もあれば、攻撃するための擬態もあるの」
「……?」
「木の中に隠れるためには木の形になればいいのよね。じゃあ人間の中に隠れるためにはどうすればいいのかしら?」
僕は扉のすぐ手前にいる。鍵はかかっていないはずだ。いざとなればこんな古い木の扉など蹴破って脱出することは簡単だ。
「先生、あなたは……擬態なんですか?」
「あなたは私のことを疑っているようね。さすが擬態愛好家だけのことはあるわ。でもちょっと違うわね」
「何が、違うって言うんです?」
「さっき話したでしょ? 擬態の目的よ。捕食者は獲物が近寄ってくるような擬態をするの。そして私は擬態コレクター。擬態コレクターが擬態を捕まえるにはどうすればいいかしら? 獲物が好きなものに自分自身が擬態すればいいのよ。ところであなたが好きなものは何かしら? ねえ、とびっきりの擬態さん」
「……!」
「私は捕食者として擬態している。そしてあなたは捕食者から身を守るために人間に擬態している」
僕はありったけの力で扉を蹴破った。その勢いで廊下に倒れ込んだ。綾子先生がゆっくりと近づく。僕は立ち上がり走り出そうとする。しかし麻酔薬を打たれたかのように足がしびれてくるのを感じた。もしや、あのお茶、あれも擬態か……。そして背中越しに先生の声が聞こえる。
「あなたはまだ分かっていない。あなたは私が絡新婦のように女の姿をしていると思っているようね。でもここにあった旧棟はあなたが入学する前にすでに取り壊されているの。私が擬態しているのは、綾子先生も含めて、この旧棟全てなの。あなたはもう捕食されているの」