渦の蒐集

私は渦の蒐集をしている。渦の運動というものは、見ていてまったく飽きない。蒐集といっても、目に見える形で増えていくわけではない。ただ心のファイルにしまうだけである。

松林の脇の道を歩いているときのこと。林の奥に、赤い棒が立っているのが見えた。なんとなくその棒に目を据えながら歩いていくと、じわじわと棒が変化し始めた。

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太さが増したと思ったら、別の横棒が現れ、俄かに立体的になり、あれよあれよというまに鳥居の形になった。

なんだ……、と私は呟いた。もともと鳥居だったのだ。真横から見ると、鳥居は棒に見える。しかるべき角度から見て、初めて鳥居の形が立ちあがってくるのだ。

はたと私は立ち止まった。ひょっとして、単なる線やぺしゃんこなものも、別の角度から見ると実は渦になっているんじゃないか? 翌日から私は、今までとは比べようもないほど多くの渦を発見するようになった。

以前は見過ごしていたものの中にも渦を見いだすようになったのだから当然のことである。角度によって、渦は変幻自在なのだ。

折りたたまれた渦は物に限らず、思考などにも及んだ。たとえば編みものといった繰り返しの単純作業をしている最中、頭の中で渦的なものが発生していることに私は気付いた。

そういうときに現れる渦は、たいてい色がなく、とろんとしたゼリー状で、緩やかな螺旋を描いている。螺旋はひどくゆっくりとしたペースで回転しており、私は機械的にかぎ針を動かしながら、別の意識で螺旋の回転を追うのである。

また、メールのやりとりの最中にも、渦的なものを感じることがあった。それは始まりも終わりもない渦で、どこにも行けない回転に、時間ごと巻きとられていくような無力感を伴っていることがしばしばあった。

まったく渦はそこらじゅうにあった。めくれあがった本のページの隙間、湯呑みの緑茶の中、フローリングの床の木目、ランチョンマットの皺の中、ぼーっとしているときの部屋の上空にさえも。

ならばすべてのものは渦から出来ているのではないか、と私が思い始めたとしても、少しもおかしくないだろう。渦は、万物の創生に関わっているのだ──。日々、私はそんなことを考えていた。

会社を辞めたくせに就職活動もしていなかったが、貯金がまだだいぶあったので気楽であった。そんなとき、ひょんなことである人物と出会い、私の渦に対する姿勢が一変したのである。

ぶらぶらと散歩をしていたときのことだ。団地に挟まれた一本道に出た。花壇や芝生が、道の両脇に続いている。花壇の中に、渦のような形をした花を見つけて、私は足を止めた。

赤とオレンジを混ぜたような色の花弁が、螺旋的な生え方をしている。近付いて触れてみると、ドライフラワーもかくやというほどカリンカリンであった。