僕は窓から差し込む優しいヒノヒカリを目掛けて駆け抜けた。ふ、と気づくと、さっきまでフルテンションで奇声を発していたオカンが黙っていた。
何故だかわからないが猛スピードであったはずなのに、自分の周りがスローモーションになった気がした。猛スピードの中、時間がゆっくりと流れている感覚。世間でよく言われている死ぬ瞬間周りがスローモーションになる感じ。車椅子を押している僕からは、オカンの表情が見えない。
―僕たちは死ぬのだろうか?
無限たる不安に駆られた僕は、肩の少し上でユラユラ踊っている髪の毛を経由して、オカンの顔を覗き込んだ。僕に気づいたオカンは、振り向いて、全身のしわというしわを顔面に集中させたような、しわくちゃな優しい笑顔を僕に見せた。僕にとってその刹那は、優しくて甘い安堵の永久そのものだった。
駆け抜ける猛スピードの中。オカンは優しく静かに微笑んでくれた。この時、オカンは何を考えていたのだろう。オカンは余命を宣告されている。死を待っている。迫り来る命が終わる日。世界から自己存在が消え失せる日。
東尋坊の屏風岩の先端に兵隊が如く一列に並ばされて、定刻になれば背中をポンと押されて順番に海に突き落とされていく流れ作業の中、自分の順番を待っているイメージか。そのイメージが頭の中を占拠して沈黙していたのか。
僕らを繋いでいる命の緒をカッチカチに固結びしていたはずなのに、知らぬ間に緩んでいて、いつの間にか解けそうで、オカンがいつでもどこか遠くの暗闇へ行ってしまいそうな気分になる。オカンは何を考えていたのだろう。
軽微で甚大な失望を繰り返しながら車椅子を押し続けていると、気がつけば僕らは正面ドン突きの窓の近くまできていた。窓から差し込むヒノヒカリが僕の頬を撫でて、温かくて眠くなる。
自分の人生が、もうどうでもよくなる。オカンの人生についても有耶無耶となる。
このまま窓ガラスに車椅子のオカンごと突っ込んでやろうか。
そしたら一体どうなるだろう。楽になれるか。こせこせした苦しみから解脱できるか。
このフロアは病院の六階。割れた窓ガラスの破片に切創され転落か。
窓ガラスの向こうで手招いているのは、病気と借金に苦しむ貧困親子のあっけない転落死か。
どうせ死ぬなら、オカンと一緒に。それもまたよしか。
さりとて、車椅子ごと空へ飛んでいけないかなぁ。
いつの日か、オカンと観た映画みたいに。
宇宙人と少年が自転車で満月へと飛び立っていくヤツだ。
さぁ、オカンと笑いながら空へ旅立とう。
そして、オカンと月を目指そうか。
そして、月の裏側に隠れてオカンと二人で暮らそう。
もちろんウサギとも共存していく。
餅つきも手伝う。
バニーガールも嫌いじゃない。
そして、たくさんたくさんオカンと話をしたい。
もっと、オカンの笑顔がみたい。笑い声を聞きたい。
僕たちには時間がない。
だから。お願いします。
この笑いの魔法が解けてしまわぬように。
このまま。車椅子ごと、月へ向かって飛び立ってしまいたい。
お願いします。
何でもしますから、どうかお願いします。
オカンともう少しだけ生きたいのです。
僕の願いを。僕の祈りを。
どうかどうか聞いてください。お願いします。
どうか、どうか、お願いします。
おてんとさま。