午後六時。空には切れぎれの雲が夕陽に染まって浮かんでいた。

部屋に届いた夕刊の見出しには、「地価高騰」の文字が躍っていた。しばらく前から始まった地価の上昇はとどまるところを知らず、東京では地上げの横行で街のすがたが暴力的に変えられつつあった。それと同じ状況が、ここ京都にもおよびはじめていることを新聞は伝えているのだ。

そういう時代の変化を、新聞と出版というちがいはあれ、同様に読者に伝えるマスコミの現場にあった昨日までの自分。その自分が、いまはひとりだけそこから抜け出し、黄昏(たそがれ)の空を見上げている。

すると、ふたたび疑念がぼくをおそうのだ。こうして京都に来てよかったのかと。ここでたったひとりになって気持ちを整理し、それを言葉にまとめるという作業が、はたしていまのこの境遇から自分を救い出してくれるのかと。いや、そうではなく、京都になんかそもそも来ないで、端(はな)から職場という日常に身を置きつづけたほうがほんとうはよかったのではあるまいか。

そこでなら感傷にひたることなど許されなかったし、自分の孤独を意識して心を煩わす必要などもなかったのだから。そうかもしれない。そのとおりである。そうしていれば、昨日と変わらぬ日常が今日もつづいていたろうし、明日もつづいたことだろう。けれど、所詮、それでは問題の先送りでしかないし、ぼくはそれを拒んだのだ。現にぼくはここに来ているし、現実は動きはじめているのである。そういうスイッチをぼくはみずから押したのだ。だれの意思でもなく自分の意思で。

窓を離れ、翳(かげ)った部屋に宵の灯りをぼくはともした。