近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。

生涯と事蹟

■「私を貰ひたい人が沢山あったらしい…」

環は晩年まで瀧に求婚された話は語ることがなかったが昭和十一年二月号の「雄弁」誌が長田幹彦(一八八七~一九六四)との対談を企画した時に、話が音楽学校時代のことに及び、環と年齢も近い幹彦が当時を回想して質問した中で語られている。

「柴田環熱といふものが大変なものだったのですね」に答えるように

「音楽学校のコンサートといふと私が必ず出るでしょう。それに私より前に歌手がいなかったのですから目立ったし、幸か不幸か私は小さい時から新聞に書きたてられる人でしてね」

続いて幹彦が「死んだ瀧廉太郎さん、あの『荒城の月』を作った方を御存知ですか」

「ええ、先生は秀才だったのです。作曲を私に教えて下さいました。実はあの人も私を貰いたいといっていましたけれども駄目でした。死んでしまって可哀想でした」と話している。

環の話の中に「実はあの人も」とあるのはこの談話の前の部分で自転車通学での思い出話を受けている。

「(前略)あの時分ですから二重橋の前が原っぱです。そこを私一人、朝の風に揺られて自転車に乗っていく様子が非常によかったらしいの。センセーションを起こしちゃってね。中には送ってくれる人もあるし、ラヴレターを寄越す人もあるし(笑声)けれどもね、私はその時分藤井といふ軍医の人と内祝言が済んでいたのでラヴレターは駄目なの(笑声)兎に角、私を貰ひたい人が沢山あったらしい、中には病気になった人もあるらしい(後略)」

二十年間の外国生活、世界各国で二千回の「蝶々夫人」を歌って帰国した直後の談話であるから話も大きく明るく長田幹彦の話の引き出し方も巧みである。