3 久留米大学病院第一外科(脇坂外科)へ入局

結婚・インターン・長女の誕生

医学部四年次の秋、恒例の無医地区診療が大分県久住(くじゅう)地区の山麗であり、それに参加しての帰り、久大線のとあるプラットホームで列車待ちをしていると、三人の娘さんたちがやってきました。

列車が到着して、四人で相席となりました。しばし窓の外の景色を眺めていると、職場の看護の話をしているので、やおらどこの病院かと尋ねたところ、「久留米医大!!」との返事にびっくりしました。

偶然というものは度重なるものです。三人のうち、いかにも気立ての優しそうな、多くを語らず他人の話を傾聴していた女性が今の家内です。

大学卒業後、間もなく沖縄で結婚式を挙げ、久留米においても披露宴を行い、休む暇もない忙しさの中でインターンのために東京へ発たち、新婚生活がスタートしました。

インターン先は、杉並区阿佐ケ谷駅の近隣にある河北総合病院でした。そこには、九州大学、信州大学、岡山大学、さらに昭和医科大学(現昭和大学)出身と、全国からインターンが集まってきており、多忙な毎日を送る中、新婚生活を維持するために、日曜と休日は早朝から夜遅くまでアルバイトを余儀なくされ、混み合う電車に揺られ水道橋や神田のクリニックで稼いだものでした。

こうした多忙の中、国家試験を目前に控えているにもかかわらず夜間の自動車教習所に通い、豪雨の中、甲州街道で最後の路上テストを終え、自動車免許取得という一つの目標を達成し一段落しました。

ホッとしたのもつかの間、二月の中旬、待ちに待った、第一子(長女・結花)が誕生しました。このような多忙を極める中、ろくに国家試験の準備対策もないままに受験したものの、運良く合格の報に安堵(あんど)しました。

第一外科入局そして脳神経外科へ河北総合病院での研鑽を終え、東京から家族ともども久留米に戻り、国家試験にも合格して、憧れの外科医を目指して脇坂外科に入局いたしました。

まず、外科全般を習得するために、初年度から胸部班、腹部班、肛門班、脳班の四つのグループに分別され、各々(おのおの)のリーダーの下に、各分野の検査から手術場における助手の下積み、さらに執刀者へと順次技術を習得すると、次の班へ移動するシステムでした。

その合間には麻酔科での研修も義務づけられており、最先端の技術と知識を有する外科医としての研鑽が続きました。

研修四年目に、文部省から標榜(ひょうぼう)科目としての〝脳神経外科〟が認可発表されました。脳神経外科は、今でもそうですが、当時は心臓外科と並び、華々しく脚光を浴びる外科医の憧れの的でした。

そこで脇坂教授のお許しをいただき、九州大学に次いで九州管内では二番目に認可された、久留米大学病院の脳神経外科に移籍することに相成りました。

第一外科では、医局員は各地の関連病院へ医局長のひと声で出張を命じられ、トランク一つを抱えて赴任したものでした。それによって私もいろいろな病院に行きましたが、大学の医局内では得がたい貴重な経験をする機会となり、単に専門職にとどまらず、医師としての幅を広くすることができました。

鹿児島県川辺郡にあった牧角病院では、病院長が産婦人科専門医であられたため、手術の際はその都度、助手を務める機会に恵まれ、また外来では乳がんをはじめ、検診事業にも参画することができました。ここに一年ほどいまして、医局に戻りました。

翌年、今度は与論島に行ってくれないかというお話が来ました。これが、私の人生で決して忘れることができない貴重な体験となった、南国与論島での医療活動へとつながることになりました。