第一章 沖縄中央脳神経外科の創立
1 医師を目指したきっかけ
沖縄県立糸満高校卒業を一カ月後に控えた私は、父のお姉さんの家に居候しながら、大学受験に備えることになりました。
ただ、お世話いただいている勉強部屋は、従兄弟(いとこ)たち三人と机が並ぶ相部屋で、勉強に集中できるような環境ではありませんでした。致し方なく、近くの図書館へ行って勉強しました。
また、晴れた日は参考書を抱えて、近くの明治神宮の芝生の上で、数時間も読書に耽 (ふけ)ったものでした。
父の獣医の仕事を受け継ぐべく、日本大学獣医学部、麻布大学獣医学部、帯広畜産大学獣医学部を受験しました。
帯広畜産大学は北海道にある大学ですが、東京での受験が可能でした。高校時代、大学受験の厳しさを知る術(すべ)もなく過ごしてきましたが、運良く三大学とも合格できました。
父が卒業した日本大学に入学することにして、前期二年間の教養課程に通学しているある日、新宿の図書館で、白水社発刊による『シュヴァイツァー著作集』を本棚の片隅に見つけて、喰(く)い入るように全七巻を読破しました。
シュヴァイツァー博士(一八七五年─一九六五年)は、哲学者、神学者、音楽家であり、特にパイプオルガンの制作に卓越した演奏者でした。医師でもあり、幼い頃はドイツとフランス領で生活をしていました。
一九〇五年に、赤道アフリカにあるガボン地方で、貧しい住民のために医療活動をする目的で医学を学び、看護婦である奥様とともに、密林を切り開いて建てたランバレネの病院で医療活動を続けました。
困難な仕事にも絶えずチャレンジし、同情心にあふれ、多くの人々から信頼されていました。魅力あふれる人で、病院経営にも優れ、日常の仕事の管理は細部に至るまで統御を続けていたといわれます。一九五二年、ノーベル平和賞を受賞されています。
故郷で獣医として献身的な仕事をしている父の姿を見ているうちに、将来の聖職として、父の後を継ぎたいという願望を持って上京し、その道を歩み始めた矢先に、この著作集に偶然にも触れたことが、自らの将来の進むべき道の示唆(しさ)を与えてくれました。
獣医よりも医師の道を究めたいと父母に打電したところ、「君の将来の道は、自ら熟考の上決めなさい」との返信でした。
こうして、せっかく入学した日本大学獣医学部を中退し、医学部を目指して、その後、二年間の浪人生活が始まりました。
父母には誠に申し訳ない思いで、生活費と教材を買うために、新宿の商店街での飾りつけや練馬の道路工事では鶴嘴(つるはし)を握り、またある日は、後楽園球場の入場券を買うためにダフ屋に頼まれ、発券口で一枚買っては、また列の最後尾に並び、それを繰り返してアルバイト料を稼いだりもしました。
医学部への受験を目指して、新宿の図書館や、今でこそ厳重な警備のもとに外国の賓客を迎えるための迎賓館赤坂離宮(旧東宮御所)が、昭和三〇年頃は一部を図書館として一般に開放されていたため、早朝から暑い日も雨の日も、また寒い冬場は外套(がいとう)の襟を立て、凍えんばかりの寒風の中で、長い列をなして開館を待っていたものです。
外観や庭園もヨーロッパの建物を模し、内部も玄関先から赤絨(じゅうたん)毯を敷き詰め、階段を上ると天井や壁に素晴らしい壁画があり、まるで美術館を思わせる雰囲気に、まずびっくりしたものです。
早朝から夕刻まで『蛍雪(けいせつ)時代』をはじめ受験生向けの本の読書三昧で、医学部を目指して独習に余念がありませんでした。
東京の大学をはじめ、慶應大学に的を絞っていたある日、都内にて九州の久留米大学医学部の出張試験があることを知り、肝試しの軽い気持ちで受験したところ、幸か不幸か合格の通知が舞い込んできました。
二年越しの浪人生活で、両親には経済的負担と将来の進路について多大な心労をかけていたため、一刻も早く朗報を知らせたくも、沖縄とはいまだ電話による通話はかなわず打電しました。
翌日、父母からの返電は「合格おめでとう、万歳 !! 」でした。
もし、シュヴァイツァー博士の著作集に出会うことがなかったら、医師大仲良一は誕生していなかったでしょうし、この沖縄セントラル病院もなかったことでしょう。
今、思い返せば大変な岐路にあったのだなあと、つくづく人生の妙に感慨を深くしております。