近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。
第一部 生涯と事蹟
■音楽学校時代~奏楽堂のことなど
東京音楽学校は環の入学した明治三十三年度に規則を全面的に改正したが改正の理由は「旧規則ハ本校創設ノ際制定シタルモノニ拠リ現今斯学ノ進歩ニ伴ハサルモノ多キヲ以テナリ」となっている。(※23)
その主な点は学科と課程の改正で従来、本科を師範部と専修部に分けていた形を本科と師範科とし本科を声楽部、器楽部、楽歌部に編成したことである。予科一年、本科三年、研究科二年を修業年限とした。
師範科は甲乙に分け、師範学校、中学校、高等女学校の音楽教員養成を目的とした甲種は二年七ヶ月、小学校音楽教員養成の乙種は一年とし、他に選科は年限を一定せずとした。
そして従前の小学唱歌講習科を廃止している予科の学科課程(学科目)は、倫理(週一時間)唱歌(八時間)ピアノ(第一学期六時間、第二、三学期三時間)楽典(一時間)写譜(第二、三学期一時間)国語(四時間)英語(四時間)体操・方舞(女生徒のみ二時間)課外漢文(二時間)で合計、第一学期は二十六時間、第二、三学期各二十四時間であり、この他に練習として第一学期八時間、第二、三学期は各十時間の履修を必須とした。(※24)
昨今にくらべ、ハードな時間割だったことがわかる。
音楽学校の正門は現在の位置とは違って、帝国図書館(現在の国立国会図書館支部国際子ども図書館)の西側から上野桜木町方面に通じる道路に面していた。
図書館と黒田記念館の間に道があったわけで、東京芸術大学音楽部のキャンパス中央を旧道が通っていたことになる。