柴田環の人気は一年生の頃から既に大したもので満都の青年を魅了していた。美声であったばかりでなく美貌と共に艶やかな態度がまことにクレオパトラを想わしめるものがあった。──女史は晩年には肥満されていたが若い頃は細くスラリとして全身に色気が漂っていた。
毎朝芝の虎の門の自宅から自転車で通学していたが(当時女が自転車に乗ることは極めて珍しいことであった)その頃目につく海老茶の袴に髪は新様式の二百三高地と称する前髪が大きく突き出た束髪(その後若い女性の間に大流行をきたした。但しこの髪がはやる前には女史は房々としたみどりの黒髪をお下げにしていた)に大きな蝶結びのリボンを風になびかせて丸の内を自転車で疾走する。
それが満都の評判になって、その後ろから彼女の余香を拝せんとするモダーン青年が幾十台と自転車で彼女の跡を追う光景は、帝都の一光景であった。
「但し私は不幸にして自転車に乗れないから諦めて彼女の後を追わなかった」と書き添えられているところが愛嬌である。
音楽学校の男子生徒の中には帰途、送り狼よろしく彼女の荷物を持って送る者もあり、彼らを名付けて「洋楽ドースル連」と呼んだという。
当時、音楽学校の向かい側にある美術学校の生徒は岡倉天心の考案になる闕腋(けってき)と称する制服を着て悠々と上野公園内を漫歩していた。(※12)美術学校長の岡倉天心(一八六二〜一九一三)も同じく衣冠を正して愛馬若草号に跨って出勤する。
一幅の大和絵をみるような光景の中に、環ひとりがリボンを風になびかせ、英国製の真っ赤な自転車で、突進してくるのであるから、その対照は目を見張るばかり、明治期の文明開化の象徴ともいうべき、ほほえましい構図であった。