ふるさと広島を離れ、いよいよ関東へ向かう当日、私の父が、
「みっちゃん、大学へ行ったら勉強をするのは当たり前じゃが、それ以上に一人でも多くの一生付き合える友と出逢うことがすごく大事じゃけんのお」
と、出発前のはなむけに、普段の父親らしくない金言を私に伝えていた。
「喫茶モンブラン」で働いて貯めたお金をしっかり手に持って、東京行きの寝台列車に乗った。寝台車にはベッドが上・中・下の3段になっていて、一番上が一番安かったので、ここは迷わず一番上のベッドにした。
翌朝、当時人気のあったプロレス番組の前に出てくる東京・銀座のビルが見え、わくわくしながら、終点の東京駅のホームに私を乗せた急行夜行寝台列車が静かにたどり着いた。
東京駅構内の人の多さにびっくり。
(何じゃこりゃあ! 広島とわけが違うの。)
と思いながら山手線に乗ろうとしたが、乗ろうとした電車のドアが閉まり、がっかりしていたら、すぐにまた電車が来て、
(広島だったら1時間に3本の割合なのに、数分で東京は来るんじゃ。へぇーすごいの。)
と、こころの中で広島弁で言う。田舎もん丸出しで大学のある千葉県・市川市にたどり着き、貸しアパートは千葉県松戸市に決め、「里見八犬伝」で有名な市川市国府台にある、千葉商科大学にやっとの思いでたどり着いたのである。
昭和49年4月、大学入学後の貸しアパートは千葉県松戸市下矢切というところで、演歌曲「矢切の渡し」で有名なところでもあった。
家賃月7千円の古い木造2階建て、2階の一室をお借りしていた。
テレビを買うお金がなかったので、せめてラジカセと夜食のラーメンを食べるための小さな鍋だけは購入していた。
その買ったラジオからよく流れていた歌は、
「岬めぐり」と「妹」という歌であった。
私は食費を切り詰めるために、朝食を抜き、昼食は大学の食堂のカレー(当時100円)、夕食は近くの中華料理店の中華丼(250円)、夜食はサッポロ塩ラーメン(50円)で1日の合計の食費は極力500円以下にしていた。
たまに、昼食時のカレーライスに1個50円のゆで卵を入れて喜ぶ日もあり、いつもひもじい思いで、腹を空かせた状態の若き青年であった。
入学当初の夏まで部活に勉学にと励んでいた。
夏休みに入ると、部活の合宿代と二学期からの生活費を稼ぐために広島に帰省し、高校3年生の夏から始めていた広島市役所の「ゴミ収集」を午前中、午後は「喫茶モンブラン」でアルバイトを午後から晩までやらせていただき、毎年の夏休みには30万円を稼ぎ、10万円は夏合宿代に、10万円は二学期の生活費に、残りの10万円は夢の海外旅行の積み立て貯金に充てた。
この夏休みのアルバイト期間中、「喫茶モンブラン」のマスターから、
「濱本、我々大崎家の男は代々、わしや次男の明徳(あきのり)もある下宿屋のアパートにいたんだが、三男の孝行(たかゆき)が今大学4年生で、来年卒業するんでそこを出るんだが、よかったら家財道具はすべて置いていくから、9月から入れば」
という話をされ、夏休み明けに東京都大田区の南千束、洗足池(せんぞくいけ)の近くにあった船木淑子(よしこ)さんの所有する木造2階建てのクラッシックなアパートに移り住んだ。
ここは閑静な住宅街で、「洗足池」という地名は日蓮聖人がここで足を洗ったということで名付けられ、また、明治維新で活躍した勝海舟や西郷隆盛にも関係がある歴史的な場所であった。その洗足池のほとりを通って、東急池上線の洗足池駅から千葉の市川市まで通学することになり、三男の孝行さんと約半年間一緒に暮らした。
孝行さんは大学時代合気道部に在籍され、また、大学4年生の夏には約1か月のヨーロッパ旅行をされた。武道関係や外国の異文化の話をよく聞かされた影響で私は、当時大学1年生ではあったが、大学在学中に孝行さんのようにヨーロッパ旅行を、親のお金ではなく、自力で貯めたお金で行こうと決心していた。
そして、私が大学を卒業するときは、今度は大崎家の親戚の男子高校生が東京大学に入学するので私と入れ替わった。すべての家財道具は置いていった。就職が決まり、新住所となった埼玉県・大宮市桜木町にあったおんぼろアパート「毛塚荘」に、いつかは広島カープが日本一になる瞬間をみるためにと白黒テレビだけは大切に運んだのである。
トイレは隣の部屋と共同。
さらに、ドキッとしたことに、その隣の部屋の住人は独身の若い女性であった。