「東京では一人で住んでいらっしゃったんですか」
「環さまが外国へおいでになってからは、ずっと一人で後藤さんの離れにいらっしゃいました。それで後藤さんの方のばあやが伯母さまのお世話をしておいででした。東条さんといいましたか。女中さんは鈴木さんでした」
「登波さんは何をやっていらっしゃったのですか」
「別に何もやっておりません。環さまの仕送りの利息でやってらっしゃった。環さまの仕送りでばあやを使ったり、女中を使ったりしておったわけです。日本に帰られてからは環さまがみていらっしゃいました」
環は大正三年(一九一四)に渡欧しオペラ「蝶々夫人」二千回の上演の記録を樹立して昭和十年(一九三五)に帰国した。欧米に滞在すること二十年、この間に帰国したのは、大正十一年と昭和七年の二回のみであった。
登波は昭和二十年八十八歳で没した。翌年環も登波を追うかのように他界した。六十三歳であった。遺言によって母の眠る山中湖畔平野の寿徳寺に共に葬られた。
取材当時お元気に語ってくださった永田いとさんは平成二年九十四歳で他界された。