「危なくなんてないわ」女は振り返るとそういって笑った。透き通るような声だった。聡はそこに高校生ぐらいの少女を見た。
「やっぱり危ないよ」今度は父親のように聡はいい、笑って見せた。「山に登りに来たの?」
女の子は首を振った。二人はしばらく黙っていた。突然少女が笑った。
「わたしね、失恋したんです」
それから急に真剣な表情になって付け加えた。
「ごめんなさい。わたし、変なこと言ったかしら」
聡がびっくりして黙っていると、少女は足下を指差した。
「ここら辺はとんぼが多いところなんですね」
見ると、落ち葉の間に半分腐りかかったとんぼの死骸がたくさん転がっていた。秋の間に群れをなして大空を舞っていたとんぼはこうして土になっていくのであろう。
どのぐらいの時間が過ぎたのだろうか。一瞬のことにしか思われなかったのだが。ふと聡が目を上げると、少女の姿は消えていた。
八荘山は夕暮れの中に姿を没しようとしている。七曲山から続くごつごつとした山肌が不吉なまでの赤みを帯びて、凄みを帯びた憂色を垣間見せながら一日が終わろうとしていた。そのとき不意に風が起こり、山が一斉にざわざわと鳴って、眼下に広がる山影の濃淡を波のうねりのように変えていったのである。
まるで狐に化かされたようだ。そう思いながら聡は山を下っていった。