第一部 生涯と事蹟
第一章 生いたち
三 出生地
(五)
明治四十四年(一九一一)帝国劇場が開幕し、この年三浦環はそのプリマとして活躍した。彼女二十八歳のときである。
音楽学校時代、この場所を皇居内堀沿いに芝から上野まで自転車美人などともてはやされながら通学した思い出が重なって、彼女が帝国劇場を出生地と関連づけ温存する心情は素直にうなずけるものである。
弓町の生家と帝国劇場とは外堀を隔てて六百メートルの目と鼻の距離にあった。「帝劇の近所にあった二階建の家」とする環の表現は正鵠を得たものだった。
都市景観の急速な変貌とはいえ、「帝劇の近く」の推測が常に丸の内の内側にあり外堀側に及ばなかったのは迂闘なことである。
明治が終り大正と年号が改まった大正元年(一九一二)の十一月環二十九歳の折、父は西久保桜川町七番地から同じ通りに面した西久保桜川町四番地に居を移した。
環が欧米で脚光を浴びその華々しい成果が報じられる頃の大正五年(一九一六)には更に三田小山町に居を転じている。公証人として成功した父、柴田猛甫(明治三十五年に改名)は『日本紳士録』に収載されるほどの多額納税者であった。(※25)
西久保桜川町と西久保明舟町を堺する通りは麻布飯倉方面に通ずる主要道であり、『東京名所図絵』によると、二階瓦葺の商家が軒を連ねており、邸小路に入るとそこには旧江戸藩邸や諸幕士の宅地が続いていて、環が東京音楽学校に通学した頃の桜川町七番地はその一角にあった。(※26)