第二話 香港遠征物語
2
2009(平成21)年11月28日から30日にかけて、香港・晒草灣(サイトゥワン)棒球場にて「香港女子野球クリニック」が開催された。
形式上は香港女子野球協会からの招待ではあったが、実質的には平成国際大学と花咲徳栄高校の女子硬式野球部の有志たちによる自費参加、つまりはボランティアによるクリニック敢行だった。
この年の春、香港から二人の女子野球選手が来日した。
自らプレーヤーでもあり香港女子野球協会関係者でもあるキティとエアー。彼女たちの来日目的は、日本の女子野球の実情を知ること、そしてその指導方法を学ぶことだった。先にも触れたように、日本の女子野球の実力は世界レベルで見てもトップレベルにある。
2004(平成16)年、カナダ・エドモントンで行われた第1回大会、2006(平成18)年、台湾・台北(タイペイ)市で開催された第2回大会こそ、2大会連続でアメリカに敗れ準優勝に終わったものの、2008年に開催された日本・松山市での第3回大会では、他国を寄せつけぬ圧倒的な実力差で初優勝を飾っている。
一方、香港もナショナルチームを結成して世界大会に出場しているものの、いずれも芳しい成績を残せてはいない。日本チームが優勝した第3回大会では、出場8カ国・地域中最下位に甘んじていたし、日本チームとの対戦では記録的な大敗を喫していた。
第2回大会では0対43、2年後の第3回大会でも1対24という惨敗に終わっていた。2010(平成22)年にはワールドカップの第4回大会も予定されている。
だからこそ、レベルの高い日本の各チームの実情や練習方法を視察することが、香港の女子球児たちにとっての急務だったのだ。
この来日期間中に二人の香港女性選手たちは、関東女子硬式野球連盟による、ヴィーナス・リーグ戦を視察し、その際に、平成国際大学女子硬式野球部監督である私と出会った。
キティは香港の女子野球の実情を私に説明する。
「香港には、満足な練習場所も指導者もいません。みんなが集まって練習をする環境もないので、どうしても全体のレベルを底上げすることができません。正直なことをいえば、満足にキャッチボールすらできない選手ばかりです……」
それは、女子野球を指導するようになったばかりのかつての私が抱えていた問題と同じものだった。
わざわざ日本までやってきて、何とかレベルの向上を願う彼女たちの姿を見ていると、私の胸の内にも熱いものが湧き上がってくるようだった。
──そういえば、日本の女子硬式野球の生い立ちは、中国のチームが来日して日本の高校チームとの交流戦がきっかけで、現在がある。ここで恩返しのためにも、私たちが香港に行って、直接、指導をできないものだろうか……。
香港からやってきた二人の女性を前にして、私の中には有志を募って香港に遠征に行くというプランがすぐに浮かんできていた。
自宅に戻って香港チームを調べてみると、ワールドカップやその他の国際大会では一度も勝ったことがなく、しかも野球のスコアではない大差での負け方であることが分かった。
──花咲徳栄の創設期と同じだな。でも、平成国際大学にはワールドカップで活躍した選手がいる。また、花咲徳栄高校も3年ぶりの全国制覇を成し遂げたばかりだ。実績的には決して恥ずかしくない。今までやってきたことを、自信を持って指導すればいいんだ。
まずは、学校の許可を得ること。そして、選手たちに遠征の希望を聞くこと。さっそく、準備にとりかかるとしようか……。
それが、今回のクリニックの始まりだった──。
*
埼玉県加須(かぞ)市──。
関東平野のほぼ中心にあり、埼玉県の北東部に位置する人口11万4000人の都市。鯉のぼりの生産数日本一を誇り、うどんの街としても知られるこの地に平成国際大学と花咲徳栄(はなさきとくはる)高校はある。
ともに「佐藤栄(さとえ)学園」グループである両校には、全国でも珍しい「女子硬式野球部」が存在することで、全国の女子球児たちの間ではよく知られている学校だ。
平成国際大学女子硬式野球部監督であり、花咲徳栄高校女子硬式野球部の部長でもある私、濱本光治(はまもとみつはる)は1956(昭和31)年2月5日、宇宙戦艦ヤマトのモデルになった戦艦大和(やまと)を建造した広島県呉(くれ)市で生まれ、原爆の爪痕(つめあと)がまだまだ残る広島で育った。
終戦からすでに10年が過ぎていたとはいえ、街はまだ復興途中にあり、地域全体がいまだ裕福ではなかった。この年に経済企画庁から発表された『経済白書』には「もはや戦後ではない」の文言が躍っていたものの、広島市内のバラックに育ち、幼い頃から新聞配達や牛乳配達をしながら家計を支えていた私にとって、この頃はいまだ「戦後」にあった。
アメリカのB─29「エノラゲイ号」の原爆投下の目印になったTの字に架かっている相生橋(あいおいばし)近くにある本川(ほんかわ)小学校に通っていた私は、現在世界遺産になっている原爆ドームによじ登ってよく遊んでいたものだった。