第一章 ほうりでわたる

進路

中学のクラブ活動では、剣道部でした。当時は剣道と言わずに、竹刀(しない)競技と言っていました。防具は剣道の防具より簡素で、竹刀も割れ目をたくさん入れた竹に布をかぶせてあり、あまり強い当たりがないようにしたものです。

太平洋戦争で敗戦国となった日本は、GHQより剣道が禁止されていました。竹刀競技は、現在のフェンシングに似たような白い防具を着用します。その下に白シャツ、白ズボンです。それでも先生方は昔からの剣道防具を付けて生徒に教えていたので、子供心にそれはどうかなと疑問に思っていました。

一九五四(昭和二十九)年には竹刀競技は廃止になり、現在の剣道に統一され、昔ながらの防具で競技するようになりましたが、私たちが中学に在学中は竹刀競技という形でした。

中学も三年生になると、進学のことが友達や家族の間で話題となります。ひとつ上の姉は普通高校に進みましたが、私は家庭の事情から普通高校に進学することは難しいと感じていました。私は働きながら学ぶ定時制高校に進学することを選択しました。

機械科に四十八名が入学しました。競争率は一・八倍と高く、優秀な生徒たちが集まってきました。ほとんどが中学を卒業してすぐの入学者ですが、二十代の生徒もいました。

それでもみんな、詰襟の学生服に学生帽をかぶっていました。中には自衛隊の制服のまま通学してくる生徒もいました。機械科ですから実習もあります。そろいのつなぎ服を着て実習を行いました。

全日制の生徒と同じ機械を使うので、工作機械もたくさんの種類が整っていました。旋盤、フライス盤、歯切り盤、鍛造機械、鋳物工場、木型工場などです。

私は父の手伝いをしながら、旋盤などの工作機械をすでに使っていましたので、実習では先生になったような気分で同級生に教えていました。

学校生活は楽しく、蛍光灯の下で学ぶことに夢と誇りを持っていました。クラブ活動は計算尺部とラジオクラブに入りました。当時は電卓もパソコンもなく、機械科は計算尺で計算していました。計算尺の競技会などもあり、他の工業高校とも競技を行っていました。剣道部がなかったのは残念でした。

当時はスーパーヘテロダイン方式の受信機が出始めて間もないころでした。日本に普及していた並四ラジオからの転換期で、ラジオクラブでは真空管や部品を集めて組み立てました。半田付けをするのが楽しく、完成して音声が出ると、無量の喜びを感じました。近所の人たちから注文を受け、ラジオを組み立てて小遣い稼ぎをしていました。

[写真1]1959(昭和34)年 中津東高等学校定時制機械科4年生。昼間は働き、夜学ぶクラスメイトたちと。私は前列中央の先生の右横。