日本からアメリカのロサンゼルスへの移住は、カリフォルニアの青い空と海に吸い込まれるように、わりと静かに決行されたのだった。1990年のはじめ頃だったろう。

知り合いといえば、留学中の大学生の娘と高校生の息子だけだ。母親であり父親でもあるマヤは50代半ば、無鉄砲さ以外は何も持っていないまま日本を飛び出した、と言っても暫くは日米間を行ったりきたりと何度も往復したものだ。

移住の手続きは複雑で、諸々の雑事が降りかかってきた。覚悟はしていたけれど険しい道のりだったナと思う。マヤはそんな煩わしい迷路を一つずつクリアしていった。

新しい事に挑戦するのは、困難に直面する事が多い分、達成感は一段と深い。

そんな時市民権取得のインタビューをうける事になり、いつ実施されるかわからないその日のために、アメリカ滞在を義務づけられた。

サンタモニカのサードストリートに、小さな店を開店したのはそんな時だった。

観光客の多い好立地だった。映画やテレビドラマの撮影もよく見かけられ、街中明るい雰囲気に包まれているようだった。マヤにとってはちょっとした冒険でもあった。そしてザワザワと忙しかった。それでも毎日ビーチを歩いた。

サンタモニカビーチからベニスビーチに向かって、ベニスビーチからサンタモニカビーチへと、それはマヤの日課であり、宿題のようなものだった。

顔も腕も日焼けで日に日に黒くなりながら、空と海と夕日はマヤの皮膚と心に潜りこみ、徐々に、静かに、マヤを変換していった。いや変換されたのではなく、長い年月をかけて知らず知らずのうちに、その体に纏い続けた薄皮が急速に剥がされていったのだ。

そして、マヤ自身も気づいていない本来のマヤが現れてきた。青い空と青い海、そして白い砂浜と爽やかな風、他に欲しいものがあるだろうか?

サンタモニカの小さな店はクリスマス前に売却した。

そしてマヤはただの怠け者になった。

そんなマヤがラスベガス行きを思い立ったのは、翌年の3月になったばかりの頃だ。リトル東京発のラスベガス行きバスは、観光客や地元のシニア夫婦などで結構な混み具合だった。空席あるといいナ、とマヤが車内をみまわしている時「あんた一人かね? ここ空いてるよ」とマヤに声をかけた人がいた。

白髪の婦人が自分の席の隣を指差しながら「ここ」と言った。

「ありがとうございます」と言って、ひょいと座ったマヤだったが、気がついた時には妙に打ち解けた気分になっていて、親しく会話している二人がいた。

彼女の話しぶりには落語のオチを思わせる面白さがあった。

 

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