はじめに
「『万葉集』四千五百余首の中に、たった二首しか残していないのに、忘れられない人―それは有間皇子(ありまのみこ)」作家の永井路子氏の『よみがえる万葉人』(読売新聞社)に収められている「白鳥の皇子―有間皇子」の冒頭の一文ですが、この言葉が有間皇子という存在を実によく表しています。
「磐代(いはしろ)の 浜松が枝を 引きむすび 真幸(まさき)くあらば また還(かへ)り見む」
「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」
有間皇子は、軽皇子(かるのみこ)、すなわちのちの孝徳(こうとく)天皇の皇子として生まれながら、政争に巻き込まれ、謀反の罪を着せられた後、和歌山県の藤白坂(ふじしろざか)で十九歳という若さでこの世を去った悲劇の皇子です。
誰も触れることのできない、遠い昔の物語。千四百年という歳月は、あまりにも長い時の隔たりと言えます。無責任と言われるかもしれませんが、人の記憶は流れ去り、その証はもはや、どこにも残されていません。それならば、伝え継がれてきた物語に寄り添いながら、歴史のロマンとして、有間皇子の短い生涯に思いを馳せてみたいと思います。
私が有間皇子に興味を抱いたのは、平成二九年一一月に開催された地元の「熊野古道・万葉ウォーク」に参加したことがきっかけでした。それ以来、古書を含むさまざまな書籍を集め、研究を重ねてまいりました。関連する各地にも足を運び、写真も撮影しました。そして二年ほど前から、資料の整理と編集に着手しました。
最近、教育評論家の中谷哲久氏が担当されているWBS和歌山放送のラジオ番組「やるぜ! てっきゅう先生のサタデーナイト」に、有間皇子をテーマにした内容でゲスト出演いたしました。
続いて、本文にも掲載している歌「藤白坂」を作詞し、CDも製作しました。さらに、お絵かきクリエイターの「おかきよ」様のご協力を得て、お絵かきムービーを完成させました。
このたび、それらの研究の集大成として、本書の出版を決意いたしました。土日祝日を中心に作業を進めてまいりましたが、想像以上に困難な道のりでした。
税理士法人の代表社員として、平日は早朝五時三〇分に出社し、一六時三〇分に退社する業務をこなしながらの執筆です。家の用事など土日祝日でなければできないことも多く、執筆に充てられる時間は限られていました。
本稿では、『日本書紀』を一次史料として重視し、その記述を精査することから出発しました。単なる文献解釈にとどまらず、記述の背景や意図を読み解きながら、論理的な推論を積み重ねていくことを試みました。
併せて私自身による現地踏査および関係者への取材を通じて、文献だけでは捉えきれない地理的・伝承的な要素を検証しました。現場に立つことで得られる実感は、史料理解を補完し、新たな視点をもたらしました。また、一次史料の精読と実地調査の成果に加え、これまでに蓄積されてきた先行研究を踏まえた上で、独自の解釈を提示しました。
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