かばんの中に入れていた文庫本を、電車の中で取り出そうとして、やめた。取り出せなかった、と言った方が正確かもしれない。
本を読んでいる時だけ、何者でもない自分になれると、前に思った。亀島の背中をさすっていたあの30分、私は本山千晴だった。本山千晴という狡い人間だった。でも、それ以外の何かでもあった気がした。気がした、だけかもしれない。でも、気がした。
そのままでいたかった。
本を開いてしまえば、ニュートラルな状態に戻る。その状態から現実に戻れば、計算をしている自分に戻る。さっき確認した情報の使い方を考え始める私に戻る。帰宅したら何をするかを考え始める私に戻る。
それに戻るのが、今夜だけは、少し嫌だった。
電車は動いていた。車窓の外に街の夜景が流れていた。亀島と一緒に見た長時間露光の写真みたいに、光が尾を引いていた。人の気配がないのに、人の匂いがした。
亀島はあの写真の前で、そう言った。
私はあの時、何も言わなかった。言う必要がなかったから、と思っていた。でも今になって、言えなかったのかもしれない、と思った。同じものが見えていたから。見えていることを、言う言葉が出てこなかったから。
達成感で塗りつぶす。感傷は削除する。今夜の手は嘘でできていたが、家に帰ってからの手は現実を動かすための手だ。材料は揃った。時機を見て使う。それだけだ。難しい話は何もない。
それだけだ。それだけなんだ。それだけなのか。
考えるのを辞めよう。電車が駅に着いて、私はホームに降りた。なんとなくかばんをまさぐると、文庫本の背表紙に指が触れた。でも取り出さなかった。
今夜はもう少しだけ、何者かのままでいた。いたかった。
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