既婚の俳優との話だった。
本郷から聞いていた名前と、一致した。
亀島は名前を言わなかった。名前の代わりに、「すごく大事にしてくれる人なんだよね」という言葉を使った。
大事にしてくれる、という表現を使う時、人間は既にその関係を正当化しようとしている。正当化が必要な関係、というのはつまり、正当化できない関係だ。
「向こうは既婚者だって、最初から分かってた」と亀島は言った。
「分かってて、それでも、気づいたらもうなんか、断ち切れなくて」
断ち切ろうとして、できなかった。できなかったことを悔やんでいる。悔やんでいるのに、続けている。
人間というのはつくづく、非合理的な生き物だ。
亀島ほどの頭脳を持っていて、亀島ほどの自己保存能力を持っていて、それでも感情という名前のバグがシステム全体をクラッシュさせる。
恋は盲目とはよく言ったもので、愛という名前の感染症は知性への免疫を持たない。大卒だろうが論文を書けようが、罹る時は罹る。
むしろ知性が高い人間の方が、合理的に言い訳を作ってしまうぶん、深みにはまる速度が速いかもしれない。もがけばもがくほど、ぬかるみにはまっていく。
脳内のスプレッドシートに、確認のチェックを入れた。
やっていることは情報の確認だ。本郷から仕入れた話が本物だったという検証だ。そういう作業として処理した。処理しなければならなかった。
でも同時に、どこかに引っ掛かりがあった。
亀島がこれほど賢い人間だということは、もう十分に知っていた。知っていたのに、こういう形の脆さがここにあることが、なんというか、シンプルに驚いた。驚き、という感情は私にとってかなり希少種だ。
大抵のことは事前に想定できる。想定の外に出てくる人間は少ない。亀島は何度か想定の外に出てきたが、今夜の外れ方は、今までと種類が違った。
智者も愚を犯す。わかっていた。頭でわかっていた。でも亀島がそれをやるとは、どこかで思っていなかった。思っていなかった自分の方が、むしろ甘かったのだろうか。
人間というのは結局、どこかで同じ穴に落ちる。頭の良し悪しは落ちるかどうかに関係なく、落ちた後に這い出すスピードが変わるだけだ。
それとも、孤独というのはそれほどに人間を狂わせるのか。
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