「私、ピアノを見たかっただけで、すぐ帰るつもりだったから手ぶらで出てきちゃったのよ。だからお金の持ち合わせがなくて……、その、コーヒー代が……」

「なんだ、そんなことか。ああ驚いた。僕が君をついナンパしたんだ、当然僕が払うよ。早くレッスンに行っておいで。転ばないように」

「ありがとう、今度逢った時は私がおごるわね」

彼女は残ったアイスコーヒーをずずっと音を立てて飲み干し、ぶるーたすのドアをかららんと鳴らし去っていった。

しばらく僕はぼーっとしながらアイスコーヒーを眺めていた。“月子さんか、素敵な名前だ。感情豊かなのかな?”グラスにはびっしりと水滴がついている。真似をして僕も残ったアイスコーヒーをずずっと音を立てて飲み干した。そして、ふふっと笑った。

「マスター、もう一杯いいかな?」

「アイス? ホット? なかなかファンキーなお嬢さんじゃないか。振られるなよ」

マスターは普段ほとんど口をきかない。ほとんどというより全くだ。彼女は人を魅了する魔法でも使えるんじゃないのか?と僕は思った。

5月になり過ごしやすい季節となった。僕はここ最近ずっと忙しかった。若い初級者の女性、上級者でゴテゴテに化粧をして高級な着物を着たマダム達との茶会が続いたからだ。僕は弟子達から「若様」と呼ばれ返事をする自分に辟易し、散歩に出かけた。かなり歩いたような気がする。もう少しでぶるーたすだ。急に月子に逢いたくなった。

犬の散歩をしていた中年の女性に声をかけた。

「あの……この辺にピアノ教室はないですか? たしか、ナカムラ……」

 

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