ムーンライト・ソナタ
それは突然だった。僕は気晴らしにふらりと楽器店に入った時、展示されているピアノには小柄な女性が座っており優しい曲を弾いていた。
ブルグミュラーの『素直な心』。僕はその演奏を聴いた時、ん?と思った。懐かしさもあったがその上手さに感動せずにはいられなかった。子供の練習曲じゃないか……、と分かっていても僕はもう少しで泣くところだった。静かに曲が終わると、
「ブラボー!」と僕は言い拍手をした。
彼女はビクッと肩を揺らせ、ピアノに座ったままゆっくりと僕を見た。“何があったのよ”と言わんばかりに。まん丸な目をして僕を見る彼女は美人だった。
「どちら様でしょうか、驚いたわ」彼女はまだ僕を見ている。
「ああ、ごめん、ごめん。つい懐かしくて」
「この曲を知っているってことは、ピアノを習ったことがあるのね?」
「ああ。子供の頃にね」
「私、これに決めたわ」と言い立ち上がった。
「これとは?」
「ピアノが欲しかったの」
彼女は店員を呼び、納品の日時を素早く決めた。
「いつもありがとうございます。またのご来店をお待ちしております」
店員は深々とお辞儀をした。そして、彼女はさっそうと店を出た。僕は慌てて彼女を追いかけた。
「ねぇ、君……」彼女は怪訝そうに振り向いた。
「あの、まだ何か? 2小節目のクレッシェンドが甘かった、とか言うんじゃないでしょうね?」
「違うよ。ちょっとお茶でもどうかな……と思って。ああ、そんなに時間は取らせないよ」
「ブラボー!の次はナンパ?」
「そう、ナンパ」と僕は笑った。