10メートルの壁
人が飛ぶに当たって、上昇するのはあまり怖くない。急上昇することはほぼないし、飛ぶ前に気を付けていれば、上にぶつかる心配もない。問題は降りる、いや〝落ちる〟ほうだ。
上昇できても一定以上の高さを過ぎると、急に落ちたらどうしようという恐怖が上回る。人にもよるがその高さは二メートルか、せいぜい三メートルくらいだろうか。
二階以上に住んでいる人なら、ベランダから空中に飛び出すことを想像してみてほしい。迷いなく飛び出せるだろうか。恐らく無理だ。飛んで〝落ちる〟、すなわち落ちてけがをするか死んでしまうイメージしかわいてこない。
そう考えると、高さ10メートルはやばい。 羽ばたきを気持ち緩くすることで、落ちる速度を調整することにした。初めてにしてはまあまあ上手くいった。少し強めに落ちてしまったが、踵にジンとくる程度ですんだ。
「よしよし」
薄目を開けると時計が見えた。起きる時刻までにはもう少しある。練習を続けよう。私はまた夢の世界に戻った。部屋の中だとすぐに天井にぶつかってしまう。家のそばの河川敷に出た。
九月に入っても昼間は猛暑が続いていたが、夜はこっそりと秋めいてくるから不思議だ。
ブオゥ、ブオゥとうるさかった蛙の声が、いつの間にかもの悲しい虫の音に変わっていた。
川べりの道を覆う伸びきった草むらが、まだはるか南にいるはずの台風の影響からか、時折ザァザ、ザァザァー、ザァザと音をたてながらヘッドバンキングしている。
夢の中はまだ深夜のようだ。わし座の彦星、アルタイルが西の地平に傾き、東にはオリオン座の三つ星が立ってちかちかと登り始めている。
多摩川の対岸には林立するマンションの灯りと、深夜もおかまいなしに車が行き来していたが、河川敷だけは墨をまいたように真っ暗だ。手元さえよく見えない。下弦の月が照らしているが、人通りもなく不審者にまちがわれる心配もなさそうだ。
私はさっきの続きを始めた。わずか数分前のことながら不安だったが、一旦現実に戻りかけた体はちゃんと感覚を覚えていた。
「ふうっ」と息をつくと、両腕を八の字を書くように、最初ゆっくり、徐々に速くかき続ける。空気をしっかりと下に押しながら。絶対に上がるはずだと信じるのだ。つま先立ちになった親指の先が地面を離れるのがわかる。
そこからは空気を押している感覚がより強く感じられるゾーンだ。さらに速く強くかく。10メートルくらいまではもう大丈夫だ。10メートルは地上で走る分にはあっという間だが、垂直に延びると意外に高い。ふだんの生活で経験することのない景色だ。しかもあろうことか、私の体は浮いている。
次回更新は5月27日(水)、11時の予定です。
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