第一章 『少年の日の思い出』の隅をつつく

一 なぜちょうをつぶしたのか?

まず、一年生の三学期に読む、ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』(教育出版、光村図書、東京書籍)をつついてみます。これにも「突っ込んで読まないと意外と気づかない読解」が幾つもあります。

それにしても、考えてみれば毎年何万人という中学生が読み、それがもう何十年も続いているのだから、『少年の日の思い出』とか『故郷』とか『走れメロス』とか、ものすごいロング&ベストセラーなんですよね。日本のほとんどの人が読んでいる、と言っても過言ではない。

世界一のベストセラーは『聖書』だと聞いたことがありますが、日本だったら間違いなく教科書の中の作品、でしょう。逆に言えばこれらの教材を取り上げるのは、かなり勇気が要りますね。きっと私の知らないところで、微に入り細に入り研究されていることだろうし。

さて、『少年の日の思い出』は、言うまでもなく日本語訳なので、原文のニュアンスとは違っているところもあるでしょうし、日本語訳そのままで読解しても、ヘッセの意図と違ってくる可能性があることは重々承知です。それを踏まえたうえで、幾つか授業の中の思い出と、私流の読解について触れていきたいと思います。

皆さんご存知のこの小説は、主人公が闇の中で、自分の集めたちょうの収集を一つ一つ指で粉々につぶしてしまうシーンで終わります。

「僕は、そっと食堂に行って、大きなとび色の厚紙の箱を取ってき、それを寝台の上にのせ、闇の中で開いた。そして、ちょうを一つ一つ取り出し、指で粉々に押しつぶしてしまった。」

なぜそうしたのか?という理由については後に触れようと思いますが、もう一つこのシーンで大切なのは「闇の中で」つぶしていたこと。つまり、想像するしかないのですが、「主人公はどんな表情でつぶしていただろうか?」なんてことを考えてみるのは重要な読み取りだと思います。

苦悩に歪む表情なのか、泣き顔でつぶしているのか、能面のような無表情でつぶしているのか……さすがに笑いながらつぶしているとかサイコなことを考える生徒はいないでしょうが、ここで「カオナシ=表情が見えない」で想像に任せて終わらせているあたりは、作者ヘッセの計算だろうと思います。

とともに、この「カオナシ」場面って既視感がありませんか? そうです。ビフォーアフターのアフターパートです。

この話は前半が大人になってから、後半がその人が子供のときの思い出、という構成になっていますが、その前半最後のシーンです。抜き出しますと、

「彼は、ランプのほやの上でたばこに火をつけ、緑色のかさをランプにのせた。すると、私たちの顔は、快い薄暗がりの中にしずんだ。彼が開いた窓の縁に腰掛けると、彼の姿は、外の闇からほとんど見分けがつかなかった。私は葉巻を吸った。外では、かえるが、遠くから甲高く、闇一面に鳴いていた。友人は、その間に次のように語った。」

……というシーンです。現在のシーンの最後と、回想シーンの最後を、どちらも「暗闇の表情を見せない」ことでそろえるのは、これは日本語訳どうこうということで変わりはないでしょうから、明らかにヘッセが、全体の構成を意識して、あえてこうしたのでしょう。

(お笑いの世界で言う「テンドン=同じネタの繰り返し」ってやつにちょっと似てるかもしれません)

 

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