【前回記事を読む】隣の部屋から声がした。男女の、抑揚ある溜め息まじりの…すぐに“あの声”だと分かった。つい聴き入っていると…
「冬隣」
「食欲ありますね?」
紫の前の皿はこんもりとしている。しかし去っていった彼女の皿はちんまりしたもので、後ろ姿も確かに細かった。ちょっと恥ずかしかったが、
「人生の楽しみですから……」
「もちろんそうですよ。たくさん食べる人、いいですよね」
紫の中で危険信号がちらついた。たった今、彼女とケンカしたところで他の女に声をかけるのか? しかもこんな冴えない私に? 曖昧に笑うと食事を続けた。男は構わず話し続けた。
「観光ですか?」
「ええ……。まあ、昨日はたくさん歩いたので……」
答えながら気になった。
「さっきの人、いいんですか?」
他の客はほとんどいなくなっていた。話を聞かれる心配はなさそうだ。
「ああ、いいんですよ」
男性ははにかみながら続けた。言いたかったようだ。
「何、お恥ずかしい話ですが、実は元々別れる予定で、最後にとこの旅行に来たんです。まあその、あまり構ってやれなくて。いい彼氏じゃなかったのは認めます。それで、せめて思い出にとね。あまりいい思い出がないからって。それなのにやっぱり、とか言い出して。何で今更?ってなって、断ったら怒っちゃって」
なるほど。何となく分かる。男性はさも自分は悪くないと言いたげだが、女性としては、この旅行で離れがたい気持ちになって、引き止めてほしかったわけだ。
紫は愛想笑いを浮かべた。
「まあ、そうでしたか」