ゲームが始まった。テニスコートくらいの空き地で、子供たちが白球を追う。ボールは、軟式野球で使用するものよりずっと柔らかい、白いゴム製のものだ。
硬式ボールに模してあるのだろう、百八つあると言われている縫い目の凹凸まで、しっかりと刻まれている。
ホームベースを含めた三つの塁は、段ボールを切り抜いて作った薄っぺらなものだ。見るからに頼りなく、強風が吹けばきっと飛んでいってしまうだろう。
バットだけは立派だ。金属製で、形状から察するにソフトボールで使うもののようだ。使い古されて汚れているのは、誰かのお姉ちゃんからのお下がりといったところか。
ツーアウト制なのでゲームの進行は早く、助っ人の出番はすぐに回ってきた。互いに無得点の三回表、一死満塁の大舞台だ。
この回でゲームセットらしいから、味方の監督はここが勝機とみて、大勝負に出たということのようだ。
ソフト用のバットを軽く素振りしてみる。面接帰りなので着ているのはスーツ。背中の生地がぴんと張って、思うように振れない。
ちょっと寒いけど脱ぐことにする。下をスカートにしなかった選択が思わぬところで功を奏した。
度の入った眼鏡をついと押し上げて、視界を妨げる前髪を耳にかけた。手にしたバットをあらためて観察してみる。思った通り歴戦の疵がそこかしこに刻まれていた。多くの汗を吸っているせいで、グリップテープには黒蜜みたいな色素が浸潤しているから、出番が済んだら手を洗った方がいいだろう。
バットを振るなど何年振りだろう。以前ストレス解消で行ったバッティングセンターでは空振りばかりだったけど、子供の投げる球なら当てるくらいのことはできるだろう。
もとより、期待に応えようなんて考えちゃいない。思いっきりバットを振って、スッキリしたいだけだ。
ところが期待薄の助っ人は、往々にして年俸以上の働きをすることがあるのだ。日ごろのストレスがバットに乗り移ったのか、初球のストレートを思い切り打ち返したら、おもちゃのボールは、外野フェンスの向こうまで飛んでいってしまった。大人の威厳をかなぐり捨てた、忖度も情け容赦もない先制の満塁ホームランである。
歓喜する味方チームに地団太踏む敵チーム。子供相手とはいえ、気分の悪かろうはずはない。つまりの抜けた排水パイプのようなすっきりした気分で、三角のダイヤモンドを回る。
ついやらかしたガッツポーズも、この時ばかりは自然に出た。大人げないなどとは、一ミリも感じなかった。
次回更新は5月8日(金)、11時の予定です。
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