お袋はあの男といっしょになって苦しんだに違いない。犯行前のお袋はいわゆるノイローゼというやつで、何度も親父にSOSを出していたという。それを親父は一度も正面から受け止めようとはしなかった。

家事まで手がつかない状態になっている相手に、一言、そんなこと気にするな、としか言わなかった。

育ちざかりの子供が二人いて母親が家事を放棄すれば、家の中がどんな状態になるか、俺は知っている。親父だって知っている。なのに取り合わなかった。

考えまいとしてもどうしても囚われてしまうから苦しんでいるのに、気にするな、だと。ただ、ストレスが昂じてお袋が俺に手を上げたときだけは、止めに入ったっけ……。

急に、どこからか幼い子の歓声が聞こえてきた。大勢いる。子供の声が聞こえるはずのない場所で聞こえる不思議に、俺と妹は顔を見合わせた。塀の外からではないような気がする。この小屋のすぐ裏側――。

俺は小屋を出て声のする方を見た。白くこんもりと満開になっている雪柳の低い生垣の向こうは、緑に塗られた板塀だ。

そのすぐ裏側に子供たちが大勢いるらしい。喫煙所の親父を振り返ると、キャディのばあさんと目があった。

「保育園だよ」

大きなつばの下で朱色に塗られた唇が動いた。よく通る、無防備な濁声(だみごえ)だ。化粧がやけに濃いのは日焼け対策か。

「女の刑務官さんにはママがけっこういるからね」

女の説明に、隣で親父がうんうんと同意している。そうか、職住接近……いや、それとは違うか。

「保育園だってよ」と今のやり取りが聞こえているはずの優子に声をかけると、小屋の中の優子は柔らかな表情でこくんと肯いた。

かすかに笑みを浮かべて子供たちの声にじっと耳を傾けている。その顔はもう幼い子を持つ母親のように見えた。

次回更新は4月19日(日)、20時の予定です。

 

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刑務所で、お袋と13年ぶりに対面…こんなに小さな女だったか―。あの頃、生活が苦しく、いつも歯を食いしばっていたお袋は…

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