【前回記事を読む】かたわらには遺影を抱えた息子と泣きそうな顔の娘が…副社長が死んだのに会社の人間は誰一人いなかった。
第1章 静謀
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「部長には内緒でお願いしますね。一応、派手なネイルは禁止なので……」
そう笑って一礼し、三宅は部屋から出ていこうとした。彼女の背中を見ながら副社長だった加納が「あの子が入れたお茶がいちばんおいしい」と話していたことを思い出す。今の時代、お茶を褒めてもセクハラ発言だ。何も言えない面倒な時代になったと思った。
彼女はドアの前でふと立ち止まり、一瞬、振り返って柊を見る。だが何も言わずにそのまま部屋をあとにした。そんな彼女の素振りが妙に柊の心に残った。
総務部に顔を出したときに柊が抱いた違和感。それは誰一人加納の死どころか、加納の存在すら忘れてしまったような空気が漂っていたことだった。いつもどおりのオフィス。にこやかに電話に応対する女性社員。同僚と屈託なく話す若い男性社員。ある者は難しい顔でパソコンに向かい、ある者は書類を抱えて飛び出していく。
この平穏な社内を陰で支えてきたのが加納であることは、柊とそれぞれのトラブルに関わった当事者しか知らないことだった。
***
柊は12年前に警察を退職した。腐った組織を外から変えてやる――そう意気込み、政治の世界へと飛び込んだ。永田町で議員秘書兼私設ボディガードのような仕事を任され、現場とは違う〝力〟の使い方を学ぼうとしたのだ。
だが、待っていたのは理想とはほど遠い現実だった。結局、政治の世界も警察と同じだったのである。仕組まれたシナリオの上で、誰もが「はい」と頷(うなず)くことを求められる。何か声を上げれば、すぐに排除される。見なかったふりをすれば、生き残れる。そんな日々を繰り返すなかで、柊の内に燃えていた火は、少しずつくすぶる熱だけを残して消えていった。
そんな折、偶然が柊を導いた。かつて暴力団絡みの事件で世話になった先輩刑事と再会し、旧交を温める酒の席でのことだった。
柊は酔いも回って思わず愚痴をこぼした。「結局、どこに行っても正義なんて通らないんですね」
そんな投げやりな柊のひと言に、かつての先輩刑事はひとごとのように言葉を返した。「なら、民間でやってみるか。問題の多い会社があって、そこが相談役を探してるらしくてな」
警察OBが企業顧問に就くのは珍しいことではない。その名義があるだけで、反社会的勢力への牽制(けんせい)になる。用がなければ出社もせず、トラブル時に所轄へ相談するかどうかを助言するのがよくある顧問の役割だ。