「なんだ、別れた後は連絡してないのか。胆嚢癌って言ったかな。見つかってから、あっという間だったらしい。7月に癌が見つかった時は手遅れだったそうだ」
そう言われて夏人は昨年の夏の始め頃にあったことを思い出した。1度だけ携帯電話が鳴ってすぐに切れたので、悪戯かと思って携帯の画面を見ると夕海からだった。しばらく待ったけれどもう1度かかってくることはなかった。夕海とは同期入社ですぐに意気投合して付き合い始めた。
夏人がデザインの専門学校、夕海が短大を卒業してからの同期入社だったので、付き合い始めた時には2人とも20歳だった。ところが5年経った頃にあることをきっかけとして別れることになった。そして夕海は自ら希望を出して大阪支社に突然転勤し、交流は途絶えた。
夏人はあのことさえなければ別れずにずっと一緒だったと確信できるくらい夕海を愛していた。会社では夕海以外に夏人を理解してくれる人は一人もいなかった。彼を受け入れてくれたのは夕海だけだ。もっと彼女のことを信じるべきだったと夏人は後悔した。でも一方では、終わったことはもう取り返しがつかないし、仕方がないとも思っている。
昨年の夏にあった20年ぶりの短いコールは何だろうと思っていた。自分から連絡してみようかと何度も思ったが、そのままにしてしまった。1回だけコールしてその後かけてこないのは、単なる間違いかも知れない。本当に用があるならもう1度かけてくるだろうと思ったのである。病気になって連絡したくなったけれど、思いとどまったのだろう。
夏人は返信すべきだったと後悔した。もう2度と話もすることもできないのだと思うと、絶望的な気持ちになった。別れて20年経った今、付き合っていた頃のいろいろなことが鮮明に思い出された。
そのうちに、彼はまた眠りに落ちてしまった。目が覚めるとオレンジ色の銀座線の車両は渋谷に着いていた。会社の同僚も消えていなくなり、現実と夢の境が不明瞭だ。ただ、川村に指摘されたように自分が会社で孤立していたことは確かだ、と考えたところで、夏人は大事なことを思い出した。
夕海が死んだ? 単に夢を見ていただけかも知れない。でも昨年の夏に夕海から1回だけ着信があったことは現実だ。彼女の所在を誰かに確かめてみようか。いや本人に直接電話をすれば何か分かるだろう。
地下鉄を降り、20年の空白を越えて思い切って電話してみた夏人に返ってきたのは、「この電話は現在使われておりません」のメッセージだった。
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