第一章 ほうりでわたる
耐乏生活の始まり
ある日、父の仕事をしている工場まで、母の作ったお弁当を届けに行きました。飯盒(はんごう)に入れた弁当です。自転車のハンドルに飯盒の柄の部分をかけ、三角乗りでふらふらしながら自転車をこいでいました。
すると石ころにぶつかって自転車ごと転んでしまい、飯盒のご飯が飛び散りました。そのご飯は大麦をそのまま炊いたぶつぶつのご飯です。あたり一面に大麦のご飯つぶと梅干しとたくあんが散らばり、私は恥ずかしさと父に対して申し訳ない思いで泣き出しそうになりました。
そして慌てて散らばった麦ご飯を道端にかき集め、踏みつぶしてしまいました。それから先のことはよく覚えていないのですが、周りから見られているようで恥ずかしい思いをしたことだけは覚えています。
学校に行っても、お弁当は麦ご飯です(今では麦ご飯は健康食ですが)。弁当箱を開けるのが恥ずかしく、蓋で隠しながら食べていました。
百姓の子供の白いご飯をうらやましく思っていました。家では米粒が一粒も入っていない粟(あわ)のご飯や、大根をみじんに切って米に混ぜ、量を増やしたようなご飯などを食べていました。
私が「粟のご飯は嫌だ」と言うと、母は「乃木大将は粟のご飯を食べてえらくなったんよ」と言いました。今では粟といえばメジロなどの餌だと思っている人がいると思いますが、まじめな話、小鳥の餌ではなく、主食として食べていたのです。このころから白米に対する私の憧れと悲哀は始まったのでした。
食糧難のため、米軍より支給された小麦粉の配給もありました。その小麦粉を持ってうどん屋に行くのです。
うどん屋といってもそこで食べるのではなく、釜揚げされたうどん玉と小麦粉を交換してくれます。そのうどん屋さんには行列ができていました。
私の同級生の山下君の家はパン屋さんでした。美味しいアンパンを作っていましたが、ここでもパンと小麦粉を交換していました。
学校給食が始まったのは私が四年生のころでした。最初のころはコッペパンとスープと脱脂粉乳だったような気がします。とにかくコッペパンは美味しかったのを覚えています。