その後、この戦いは間歇泉のように、噴き出しては止まり、また噴き出すというのを繰り返しながら、長期戦の様相を呈してきた。

高倉たちは、都度オフィスに行ったり、ホテルでの執務を余儀なくされたり、安定しない苛立たしい状況におかれていた。

長期戦となった理由は、初期の要因であった宗教・政治の争いから次第に外れ、お互いの親兄弟親戚友人の虐殺に対する憎しみの報復合戦になったことである。まるでマフィアの抗争だ。

またそれだけではなく、この混乱に乗じて隣国のシリアが介入してきた。

『そもそもレバノンとシリアの国境はフランスが勝手に設定したものであり、現在レバノン領である北部海岸線とベカー高原は元々シリアのものである』との理屈を掲げての介入だ。そして南からはやはりイスラエルがちょっかいを出して来て、戦局は複雑化且つ泥沼化していった。

あの銃撃戦勃発の日以来、消息を絶っていた同僚のジョンはどうなったか?

後日、マリーが、
「ジョンは自宅に帰る途中でムスリム居住区を通過した際、ムスリム・コマンドの検問を受けた。そこでクリスチャン・コマンドの一員と間違われたらしいの。そして、とらえられて、なぶり殺しにされ路上に放り出されていたそうだわ。同じレバノン人同士なのになぜそんな残酷なことをしなければならないの……」
と泣きじゃくりながら教えてくれた。

いつの時代でも、宗教戦争とか民族間紛争の特異性は、殺し方に憎しみが投影されて残虐なことだ。

日本人居住区にも戦火が迫ってきたので、駐在員の家族は急遽全員日本へ帰国させた。
そして駐在員本人たちはレバノンを出国し、周辺の担当国へ散った。
高倉は担当地域が北アフリカであったので、一時的にエジプトのカイロへ避難した。

カイロ滞在が十日くらいになった頃、休戦協定が結ばれレバノンは平穏状態になったとの情報 が入り、彼はベイルートへ戻った。他の駐在員たちも続々と帰還した。

戻った翌日の黄昏どき、高倉は大河原と共に目抜き通りであるハムラ・ストリートへ市中の様子を見に出た。