二
通常ベイルートのバーは明け方の三時、四時頃まで営業して、ほとんど不夜城だ。
それが午後九時に閉めるということは、やはり情況は良くなっていないのかも知れない。
「よし、じゃあ、あと一杯飲んだら帰ろう、高倉君」
と大河原は言った。
客の一人が、ジュークボックスにコインを入れて一曲選んだ。
流れてきた歌は当時世界中でヒットしていたカーペンターズのイエスタデイ・ワンス・モアだ。
『若い頃は好きな曲を待ちながら、ラジオを聴いていた。そしてそれがかかると、うれしくて、微笑みながらつい一緒に口ずさんだ。そんなひと時は、そう昔のことではないのに、どこへいってしまったの。歌詞が失恋の場面になると、今でも涙が出てしまう。あの時と同じように』
うーん、いい歌だ……カレンの澄みきった歌声が、硝煙でよごれたベイルートの空気を浄化してくれるように高倉は感じた。
それから十分後位だろうか、突然バーのドアが蹴り開けられた。
黒の目出し帽をかぶった二人の男がマシンガンを腰だめにして飛びこんで来た。
「フリーズ」(動くな)
と男が叫んだ。
間髪を入れず、一人がカウンターの客全員に対して、無言で、高倉たちがいる右端に集まるように、銃口を動かして指示した。全員が両手を頭に乗せてカウンターの右端に寄った。客の一人の女は、両手を頭に乗せてしゃがみこんだ。
その時高倉は不注意にも、カウンターの上に置いていた黒いハンドバッグを取り上げた。中には命の次に大事な財布とパスポートが入っている。
その動きをガンマンは見逃さず、高倉を見た。目が合った。それは奥目で二重まぶたの少し悲しげなアラブ系の目だった。
まずい……と思ったその瞬間、マシンガンが炸裂した。と同時にガラス瓶が割れ砕け散る音が鳴り響いた。一瞬何が起きたのかわからない。
自分が撃たれたのだろうか?
撃ち終わるとすぐに二人のガンマンはバーを飛び出して行った。
あっという間の出来事である。皆ぼうぜんとして声も出ない。
間もなく、ベレー帽をかぶったセキュリティー・フォースと救急車が到着した。
女性客はそれで安心したのか、しゃがみこんだまま堰を切ったように泣き叫んだ。