【前回の記事を読む】雪山での遭難事故以来、何度も同じような「悪夢」を見る。ただ、夢から覚めても——指は無くなったままだった。
第一章 初夏の弔問
水だけでじゃぶじゃぶと顔を洗い、水滴を滴らせながら歯を磨く。石鹸を頬と口の周りに擦りつけ、目地もヒビもカビが埋め尽くしたタイルと白いウロコだらけの鏡に向かって髭を剃る。剃り終わるとまた顔を洗って石鹸を落とし、ついでに寝ぐせの頭皮まで水をかける。
風呂場から出ると鳥肌はいよいよ隆起するがタオルはなく、水を滴らせながら台所に出て流しの取っ手にかかったタオルを取る。据えた醤油の臭いが肌につく。
頭にタオルを当てながら転がっているコップで水を飲み、口からこぼしながらもう一杯飲む。首筋から腹まで流れた水を醤油臭のタオルで拭きながら居間に行き、洗濯ばさみに挟んで吊してあった乾いたパンツに穿き替える。
洗濯屋から返ってきたままのビニールを破いてYシャツを広げ羽織り、ハンガーに吊したズボンを穿きネクタイを締め充電器からスマホを取り上げて、このところ毎日繋がらない番号にかけるがまた数度のコールで切れる。留守電に、今日、長倉と、鬼島さんの家に行く、とメッセージを残す。
昨日、用意しておいた青いスタッフバッグを取り上げる。あれ、自分の登攀道具と間違っていないか?と突如不安になり、中身を机の上にばらまくと、やはり自分のものではないカラビナやスリング(強度のある布製のループ状の紐。ロッククライミングの際の確保などに使う)、クイックドロー(カラビナ二枚をスリングで繋いだもの)が出てくる。
それらすべてに、長倉の持ち物であることを示す水色のビニールテープが付いている。その水色のテープは、ところどころ色褪せ、岩に当たって破れている。その破れを、親指で撫でる。
青いスタッフバッグの中に、茶封筒と、もう一つ登攀道具が残っているので取り出す。登攀道具の方は、ジャンピングという岩に穴を空け、その穴に登攀用のボルトを埋め込むための道具である。そのジャンピングにも、水色のビニールテープが張ってある。ジャンピングの先には、岩を貫通するために鍛錬されたキリがついているが、改めて見ると、さほど使い込まれてはいない。
長倉は、このジャンピングを酷使するような登攀を、さほど実践していなかったのかもしれない。
長倉のことは、ほとんど知らない。長倉の葬儀で、自分と同じサラリーマンクライマーであったこと、でも、本格的に山を始めたのは、三年前、燕山岳会に入ってからだということ程度は聞いたが、それ以上のことは知らない。
そういえば、とビジネスバッグの中を改めると、昨日忘れないように入れておいた遭難事故報告書はきちんと入っていた。今日はこれも長倉の両親に渡さなければならない。その冊子を取り出してパラパラとめくり始めると、またあの言いようのない悪寒が背筋を走り始める。吐き気を催す、あの悪寒。
目をきつく閉じ、冊子を机に放って頭を抱える。終わりのないトンネルの中で、悔恨、焦燥、不安、諦観、すべてが入り交じり掌握不能の感情に押し潰されそうになるが、あの遭難事故以来幾度となく襲いかかってきたこの時間は、ひたすら頭を抱えて耐えるしかないことは知っている。