一
「ではちょっと失礼」と、澄世は席をたって行った。七時になり、会場が暗くなり、ピアノにスポットライトがあたり、澄世が登場し、皆が拍手をした。
和彦はびっくりしたが、周り同様に静かにピアノの方を見つめた。澄世は客席に深々と礼をし、ピアノに向かい椅子に腰かけた。やはり姿勢が良く、真面目な横顔が美しく、客達は息をのんだ。
白い手が鍵盤にのせられ、曲が始まった。和彦にも聞き覚えのある曲だった。甘美で優しい曲……ショパンの『ノクターン第二番 変ホ長調』だった。甘く切ない旋律に、和彦も心を奪われた。
高いキーの連打があり、そのあと静かに締めくくられ曲は終わった。澄世が立ち上がり正面を向いた。その顔の両頬に涙が流れているのがわかった。和彦はドキッとした。
澄世はまた深々と礼をし、会場は拍手に包まれた。澄世が退場し、次にロングドレスの女が出てきて、リストの『愛の夢』を弾きだした。その途中で、澄世はそっと席に戻って来た。曲が終わると澄世がささやいた。
「外へ出ましょう」
「ああ」
和彦は反射的に同意し、澄世と一緒に席をたち、二人は後ろの客に気遣い、腰をかがめながら会場を出た。澄世はもう泣いていなかった。
「このホテルの上で、ちょっとお食事しません?」
「ああ、そうしましょう」
和彦はうつろに答えながら、頭の中では、さっき見た女の涙のわけを、知りたくてしょうがなかった。
エレベーターに乗り、二十九階で降りると、ホテルマンが、澄世の着物姿を見て、窓辺の一番いい席に案内してくれた。天気のいいせいか、外の夜景は輝くばかりに綺麗だった。
澄世はうっとりと夜景を見た。和彦はその横顔をジッと見た。メニューがさしだされ、澄世はお任せするわと言うふうに小首をかしげた。和彦は実のところ胸がいっぱいであまり食べたくなかったし、こういう場に慣れておらず、大いに困った。