母からの勘当、そして和解
私が自由奔放な生き方をしていたのは、高校卒業後も変わりませんでした。東京に半分、家出同然に出て行った時も、「お母さん、すぐに連れ戻しに行くから……」と言い、浅草の斉藤智恵子会長と面会したものの、私自身が進む道と断言したので、諦めて母だけ熊本の実家に戻りました。
浅草での生活は後で述べますが、私は29歳で膝を故障して引退したのを期に実家へ帰省しました。母は怒って受け入れる気持ちは更々なかったようでしたが、私がこれまでの生き方のギャップから、うつ病を患っていたこともあり、再度、一緒に暮らすようになりました。その後しばらくして、私が看護学校に入学して、仕事をしながら勉学にも励んでいたので、一安心したようで黙って見守ってくれていました。
勉学は順調に頑張っていましたが、主人と結婚してからは、再び勘当されました。
本当に、なんて親不孝な娘なのでしょうか。
しかし看護師として国家試験に合格した時は、もう自慢の娘に変わっていたようでした。
卒業後、母からまさかのご褒美の沖縄旅行に誘われました。二人きりの旅でした。はじめは、ギクシャクして会話も少なかったのですが、首里城やパイナップル畑、クルーザーに乗って青い海や綺麗な熱帯魚を見ていたら、私は何だか、母へのわだかまりがなくなりました。きっと母も同じだったのではないかと思います。現在は、我が家に収穫した野菜を届けに来てくれます。母は現在74歳になりますが、はつらつとして元気です。それは私にとって、何よりも嬉しいことです。