一
「自己紹介が遅れて、すみません。僕は元BBCの記者で、今はフリーのジャーナリストで、CNNと契約しています。名前は神矢敬。四十五歳だけど、独身です。名刺をお渡しするから、気が向いたら電話でも下さい。とにかく、平日のお昼はいつもここに来てるんですね? じゃぁ、ちょくちょくお会いしましょう。よろしく!」
「もう一時になりますから失礼します」
「貴女はどちらにお勤めですか?」
「神戸日日新聞です」
「じゃぁ、同業者じゃないですか!」
「いえ、私はただの秘書です」
「秘書か……なるほど」
「失礼します」
「お名前は?」
「……木村登世子……です」
「そう、いい名前だ。漢字を知りたいので、あれば名刺を下さい」
私はハンドバッグをあけて名刺入れを出し、一枚を手渡すや、レジを済ませ、急いで店を出た。外は五月晴れのいい天気だった。次の日の昼、『ココ』へ行こうか、よそうか悩んだが、結局『ココ』以外に私の居場所はないとわかり、『ココ』へ入った。
神矢はもう来ていた。「やぁ!」と私に手をあげて招き、私達は同じテーブルについた。マスターが水を持って来た。
「いつもの、ビターチョコレートケーキとブレンドコー……」
「ブレンドコーヒー? ダメダメ! ここに来たらコスタリカコーヒーを飲まなくっちゃ! ねっ! マスター」
マスターがニコッと笑った。私はクラシックが聴きたくて来ているだけで、コーヒーにこだわりはなかった。
「ここがどうして『ココ』っていうか知らないのかい?」
私は考えた事もなかったので、きょとんとした。
「中米のコスタリカにはココ島っていう太平洋上に浮かぶ孤島があるんだ。マスターはコスタリカコーヒーを一番美味しく淹れてくれるよ。マスター! このお嬢さんにビターチョコレートケーキとコスタリカコーヒーを! 僕にも、もう一杯頼むよ」
メニューをよく見ると、コスタリカが一番上に書かれていて、キリマンジャロ、モカ、ブルーマウンテン、コロンビア、そしてブレンドコーヒーと書かれていた。私はわからないので、ずっと無難だと思い、ブレンドコーヒーを飲んでいたのだ。
「はい、どうぞ!」とマスターがニコニコして運んで来た。こんなに機嫌のいいマスターを見たのは初めてだった。どうやら、神矢はずっと前からの常連のようだった。
「飲んでごらん。もちろんブラックでだよ。……違いがわかるだろ?」
神矢がすすめたが、猫舌の私は用心深くゆっくりとすすった。軽い酸味があり、苦味は適度でコクがあり、爽やかで美味しかった。
まず香りが良かった。私は新しい発見にうれしくなった。「美味しいわ」と言って、私は思わず微笑んだ。
「ほら、ごらん。良かった。君は美人だけど、笑うと可愛いんだね」と言われた。私はドキッとした。美人とは言われてきたが、可愛いと言われたのは初めてだった。