【前回の記事を読む】最近、娘がテレビをつけっぱなしにする…理由を聞いてみると、「見てるわけじゃない。ただ寂しいから…」と泣き始めた。
ハ短調に
巨大な三角
ミロのヴィーナスのレプリカ像が立つラウンジで革張りのソファに落ち着くと、時村さんがコーヒーを注文する声に被るくらいの勢いで廉の方から話し始めていた。
「私をデスクから降ろしてもらえませんか。病院通いと家事を繰り返しているうちに、もうデスクとしての職責を果たすことは無理だと分かりました」
「そうですか。承知しました」。
その腹積もりがあったのだろう、時村さんは意外なくらいすんなり請け合った。それから次の言葉を慎重に探している。
「デスクを降りられても、平林さんが積み上げてきたものは変わらずに残ります。五十五歳という年齢のこともありますし、ご希望通り『兵隊』に戻っていただきますが、今までの視点はそのままに、引き続きよろしくお願いします」
「ありがとうございます。ただ妻の看護態勢はしばらく変わることがないので、たとえ一編集記者に戻っても、今まで以上にご迷惑をかけることになるかもしれません」
「これは運命の巡り合わせとしか言いようがありません。いま置かれた状況で出来ることに、お互いがベストを尽くせば車輪は回り続けますって」
時村さんのひと言に、廉は霧の先が、ふっと見通せたような気がした。
「そうですね、そう考えるようにします。これからも引き続きよろしくお願いします」
やっとひと口、コーヒーを飲み、時村さんは話を続けた。
「ところで平林さん、講演をやってみませんか」
「はい?」
「あ、実はですね、カルチャーセンターからウチの部に依頼がありまして、女性対象の講座なんです。聴講者は二十人から三十人くらい。講演というよりは教室という感じで……」
「ちょ、ちょっと待ってください。その講師を私に、という話ですか?」