はじめに
ある少年野球チームへ一日野球塾をしに行かせてもらったことがある。質問コーナーと題してたくさんの質問をもらった中の一つに、親御さんからこんな質問をもらった。「今、幸せですか?」
その瞬間に、人生においての「幸せ」とは何かを改めて考えさせられる。野球がうまくなれば幸せを感じてくれるキラキラした表情の子供たちの目の前に、心配そうな顔をした親御さんがいる。私は野球がうまくなる方法を教えに来たはずであった。
それなのに不意に出た質問は、「幸せ」かどうか。野球をしてきて幸せになれるのか、半ば強制的に「野球」と「幸せ」という言葉を紐づけ、秤に乗せられることになった。
昔、トレーニングコーチに言われたある言葉がある。「野球選手は怪我をしてしまえば、ただの人」その当時はバリバリまだ元気に現役でプレーしている時だったので、その言葉は軽く薄い味として私の頭に入ってきた。
しかしその言葉は次第にその重さを感じ、味が濃く変わる不思議な言葉であった。どこかで似たような言葉を聞いたこともあったからだろうか。
「野球選手も結局人間であり、人間がダメになれば野球もダメである」どんな役職でもどんな仕事に就いても、「人間」の部分が疎かになれば世間には認められない。野球選手になってよく聞いた言葉だからこそ、脚光を浴びても、有名になっても、偉ぶってはいけないというメッセージが込められていたのだろう。
親から聞いた私が好きな言葉がある。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」自然界から感化されたとても美しい表現である。私の心の根底にこの言葉があるからこそ、人間性の部分を切り取った言葉が浸透しやすい体質なのかもしれない。
そのせいだろうか。どんな人間になりたいか、どんな人間になるべきか。そんな事をたくさん考え生きてきた。それは取り繕ったものではなく、経験を全て人生の栄養として吸収し、どんなに強い風が吹こうが揺らぐことのない巨木のような人間になりたいと思う。
芯は緻密に強く。そして太く。気持ちの余裕を表すような、徐々に広がる年輪を持つ巨木。生えている山は同じ土壌のはずなのに、無数にある木々の中に突然巨木が育つことがある。そんな巨木は同じ木であっても崇あがめられる。
中には神が宿ると言われるものなどもある。堂々たる巨木には自然と人が集まる。それは自然界でも人間界でも、同じことである。巨木のような大きな人間には勝手に人が集まる。