第四章 取り戻せないもの
別れは、いつだって突然やって来るものだ。予兆が全くないわけではない。ただ、それが積み重なっている最中には、人はそれを「予兆」とは呼ばない。ただの小さな違和感、取るに足らない不協和音として受け流してしまう。そしてある朝、それは唐突に現実として姿を現すのだ。
その日、彼女は朝の光の中で静かに言った。
「離婚したいの」
カーテンの隙間から差し込む淡い陽射しが、彼女の頬をやさしく照らしていた。けれどその言葉の響きは、光とは正反対の冷たい刃となって、僕の胸に突き刺さった。空気が一瞬で固まり、部屋に漂う埃さえ動きを止めたかのように感じられた。
僕は思わず聞き返した。「どうして?」
彼女は少し考えるように沈黙した。目を伏せたまま、唇の端にわずかな震えを宿し、やがて淡々と答えた。「もう、笑えないから」
その言葉は、胸の奥に小さな刃を突き立てるように鋭かった。笑えない——たったそれだけの理由が、すべての理由だったのだ。その理由の前では、他のどんな説明も付け足しも必要なかった。僕は抗弁しようとした。
「僕は君を守ってきたつもりだ。間違ったことはしていない」
しかし、口に出した瞬間にその言葉が空虚な響きに変わるのを感じた。まるで深い井戸の底に石を落としたときの、乾いた反響音のように。守るという言葉の裏で、僕は彼女を縛り付けていた。正しさの名を借りた縄で、自由を奪い続けていたのだ。
次回更新は11月25日(火)、11時の予定です。